私的二輪史研究
「日本のオートバイの歴史」

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オートバイにかけた青春 「島津楢蔵物語」
三輪 研史 (日本二輪史研究会
ストロークの研究

 年が明けた。明治42年(1909)の正月を、楢蔵は大きな希望を胸に迎えていた。新年早々から彼は第2号4ストロークエンジンの製作に取りかかった。第1号エンジンの経験から2ストロークはとても信頼できぬと考えていた。その結果目標は4ストローク単気筒、400cc程度のエンジンにしぼった。だが、ここにも多くの問題が彼を待ちかまえていた。

楢蔵は研究に行き詰まると、鎌太郎からプレゼントされたノートを開くこととしていた。文面から伝わる鎌太郎の情熱が、彼の心を励ましなぐさめてくれた。それと同時に名古屋での楽しい思い出が鮮明に蘇って来るのだった。

今度の4ストロークエンジンは部品数が多く、それだけ製作にも時間を必要とした。それに第2号エンジンは更に高回転型を目指していた。それにともない、これまでのアトマイザー気化器をやめ、フロート室を備えた上流式の気化器を新たに製作した。楢蔵が設計した第2号エンジンのアウトラインは、4ストロークF型、(吸入オートマチック・排気SV)400cc。圧縮比3・5。点火装置4・5V乾電池とコイル。気化器、フロート室付き上流式。潤滑、滴下とハンドポンプ。部品のひとつひとつに、綿密なメイク&テストが繰り返された。

春から夏に移る頃、第2号エンジンは安定した力を発揮し始めた。一歩一歩の積み重ねによる成功に、楢蔵は自信を深めていった。



パイオニアの苦しみ

 いよいよ車体の製作に取りかかるときが来た。だが車体に関しては彼を始め、猪内、宮内とも全く経験がなかった。とりあえず自転車の型をまねることになった。問題は材料だった。フレームに使うパイプさえ思うように手に入らない。やむなく古い自転車のフレームを切り取って使ったり、鉄板を丸めてパイプを作ったりした。

 駆動に使うベルトについても問題が起きた。第1号の時はあり合わせの丸ベルトを使ったのだが、今度はそれではとてももちそうになかった。楢蔵は第2号にはVベルトを使いたいと考えていた。と言っても当時Vベルトは欧米でも新型だった。もちろん日本ではまだ作られていない。彼はあちこちのベルトメーカーを訪ねてVベルトの製作を頼んでみた。だが、面倒なこの仕事を引き受けてくれるところはなかなか見つからなかった。

 Vベルトに限らず外注部品の製作を依頼に行くたびに彼の心は重くなった。21歳になったばかりの若者の話をまともに聞いてくれる人などほとんどいないのだ。Vベルトは何度も足を運んで「新田調帯製作所」というメーカーが引き受けてくれる事になった。ここの社長が楢蔵の仕事の意義を理解し、その熱意に動かされたのだ。しかし、Vベルトを作るのは容易ではなかった。ベルトメーカーの職人達でさえ、Vベルトを見たことのある人は1人もいなかった。それでも楢蔵の手許のあった外国雑誌を参考に、青色の皮とキャンバスを組み合わせて何とか作ることができた。
 Vベルトと共に楢蔵が最も入手に苦労したのがタイヤとリムだった。自転車のサイズなら日本の自転車メーカーから買うことができた。しかし第2号エンジンを載せる車体は、はっきりと自動自転車として仕上げたかった。

 夏も終わりに近づいた。フレームにエンジンが載せられ、ガソリンタンクやオイルタンクが取り付けられていった。だが全てそろったところでタイヤがなければどうにもならない。楢蔵はタイヤとリムを求めて各地の業者に手紙を書いた。
 東京の山田輪盛館、石川商会、シングルトン商会、山口勝蔵商店、大津商会、高木喬盛館、野沢組、など当時のオートバイの輸入販売に関係している業者に当たってみた、だがどこにも楢蔵の希望するサイズのタイヤとリムを持ち合わせている業者はなかった。

 他の部品は全て完成していた。もうこれ以上待つわけには行かなかった。最後の手段として彼は第1号の車体に用いた自転車のタイヤとリムを流用することも考えていた。だが、まったく思いがけないところに彼の探し求めていたものがあった。まさに灯台もと暗しだった。大阪の東区大川町にある日米商会という自転車商に、イギリス製のモズレータイヤ(27*2.5)サイズが1セットだけストックされていた。楢蔵は早速それを買い求めた。そしてその日のうちに車体に組み付けられた。



N・S号の誕生

 夕方近く、完成した国産オートバイ第1号は楢蔵によって「NS号」と命名された。もちろん島津楢蔵のイニシャルを取って付けたものだ。タンクに金文字で「NS号」とイニシャルが書き込まれた。楢蔵には試運転には自信があった。それより彼の頭の中には、1日も早く名古屋の鎌太郎にNS号を見てもらいたいという想いで一杯だった。
 やがて、生まれたばかりのNS号は表の通りに引き出された。父の常次郎と銀三郎」、それに丹金工場の職人達も試運転と聞いて集まっている。タンクに燃料とオイルがそそがれ、プラグがセットされる。猪内が最後の点検をしてからコックを開いた。楢蔵はサドルにまたがり、リフターレバーをしっかりと握った。「行くぞ」と自分に言い聞かせるようにつぶやいて、楢蔵は勢いよくスタートした。充分な助走でスピードを上げておいてから、彼はそっとリフターレバーを放した。グッとスピードが落ちる。次いで腹に響くような爆音が上がった。ペダルをこぐ足が急に軽くなる。彼の手は素早くスロットルと点火時期を調整するレバーを操作した。
 エンジンはスムーズに回転を上げて行った。道行く人たちは見慣れぬ乗り物に驚いてあわてて道を空けた。

明日に向かって

 NS号は好調だった。楢蔵は走りながら、今度に限ってそれほど感激していない自分に気がついた。オートバイに乗ることに慣れたせいだろうかと思ったが、そうではないようにも思えた。今度の成功は充分に計画された結果なのだ。自分が自信を持って一歩ずつ積み上げた成功は彼にはむしろ当然のように思えたのだ。
 いまこうして自分が操縦しているオートバイは、まぎれもなく自分自身の手で造りだしたものだという自信。そして日本初のオートバイを自らの手で完成させた誇り。この二つがオーバーラップすることによって、楢蔵という若者のスケールを大きくした。

 彼はストンストンと回り続けるエンジンにハンドポンプでオイルを送った。エンジンは相変わらず好調だった。楢蔵は、ふとこのまま名古屋まで走って行きたい思いにかられた。「棚橋先生のところへこのまま乗って行けるとしたら、どんなにすばらしいだろう」そう考えたとき、彼は自分がいま名古屋の方向に向かって走っていることに気がついた。
 だがこの頃、オートバイで大阪から名古屋まで旅することはまったくの夢でしかなかった。彼はそんなことを考える自分がおかしかった。町のはずれまで来て、彼はNS号をユーターンさせた。工場の前では皆が心配しているはずだ。彼の理解者や協力者たちと一刻も早く喜びを分かち合いたかった。楢蔵はスピードを上げて工場へ向かって急いだ。走りながらもう一度名古屋の方角を振り返ってみた。そして、いつの日にか鎌太郎のもとへ乗って行けるようなオートバイを造ってやるぞと堅く心に誓っていた。

(終わり)

エピローグ

 日本のオートバイの歴史を一口で言うならば、島津楢蔵がエンジンをかけ、本田宗一郎がそれで世界に乗り出したと言える。この偉大なパイオニアは、生涯をエンジンの研究のために尽くした。オートバイに虜となってしまった者にとって、島津楢蔵の歩んだ道はひとつの方向性を示すものである。
 だが、アイディアなど無形のものを重視しない日本にあっては、彼は必ずしも恵まれた生き方をしたとは言えない。島津楢蔵という偉大な天才のたった一つのあやまちは、日本に生まれてしまったことだ。彼がもし、同時代のヨーロッパに生まれていたなら、必ずや世界の歴史に名を残していただろう。

(日本二輪史研究会 三輪研史)


(15歳の頃の島津楢蔵)

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