私的二輪史研究
「日本のオートバイの歴史」

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オートバイにかけた青春 「島津楢蔵物語」

三輪 研史 (日本二輪史研究会

「協力者たち」

 8月中に楢蔵は大阪に帰った。父の常太郎は、当時のほとんどの人がそうであったように、自動車やオートバイについては全く知識のない人だった。だが、楢蔵の計画には快く賛成してくれた。その上費用の面倒まで見てやろうと言ってくれた。仕事場は父親の「丹金商店」の工場の片隅を利用させてもらうことに決まり、翌日から早速仕事にかかった。彼はまず欧米のメーカー宛てに手紙を書いて、片端からカタログを送ってもらうことにした。次に鎌太郎からすすめられていたイギリスの「モーターサイクリングマニアル」誌と、アメリカの「サイエンスティフィックアメリカン」誌を取り寄せ、基礎研究の資料とすることにした。これらのほか図書館などからもできる限りの資料を集める努力を惜しまなかった。国内にはほとんど資料のない当時、名古屋を出るときに鎌太郎からプレゼントされたノートは貴重なものであった。
 工場の方の準備も着々と進んだ。西区江戸堀下通にある丹金工場の片隅を囲って、必要な機会工具類がそろえられていった。そして職長として25歳の猪内好文と、助手に宮内儀助少年を選んだ。小さな工場の入り口には「島津モーター研究所」の看板がかかげられた。早速仕事が開始された。楢蔵が図面を引き、それにしたがって猪内が旋盤やボール盤を使って部品を削りだしていった。エンジンは最初の予定どおり2ストロークで行くことにした。
 計画どおり行けば、空冷・76*87.5・396ccで1000回転回るはずだった。だが、この仕事は想像したよりはるかに困難なものだった。楢蔵は、まず材質の問題に突き当たった。彼は考えた末、当時よく仲を知られていた何人かの工学博士や専門家たちにたずねて見たりした。だが、彼らとてガソリンエンジンを造った経験はまったくなかった。結局は楢蔵自身で全ての問題を解決して行くほかなかった。既成のパーツは何ひとつ手にはいらない。乾電池、コイル、プラグ、気化器など必要な全てのパーツを作り出して行かなければならなかった。
 この頃ヨーロッパやアメリカでは、ボッシュ社の高圧マグネトーが普及し始めていた。このマグネトーを用いればこれまでの乾電池式のイグニッションよりはるかにエンジン性能が向上することがわかっていた。楢蔵はボッシュを輸入して使おうかと迷った。だが、よくよく考えて、やはり計画どおり全て自作のパーツを使った純国産エンジンにすることを目指した。
 そんな楢蔵のもとに、ある日名古屋の鎌太郎から手紙がとどいた。その激励の手紙の最後にこんなことが書かれていた。「先頃、東京の寺川ポンプ製作所では輸入エンジンを搭載した自動自転車を試作しました。これはトライアンフに型に似せたものです。それと横浜のズソール商会がフランスのプレシジョン3.5馬力エンジンを輸入したことをご存知ですか。このエンジンを使って、同じく横浜の自転車商高木喬盛館が、自動自転車を製作販売したそうです。これは評判が良く、何台かの注文がつづいているとのこと。わが国でも自動自転車の需要が少しずつではありますが増加する傾向にあるようです。貴君の目指す純国産自動自転車が、一日も早く完成することを待ち望んでいます」 手紙を読み終えて、楢蔵は自分以外にもオートバイを造ろうとしている人たちのいることを知った。そして、それを心強く思うとともに、国産第1号は何としても自分の手で、という決意を強めた。
 またたく間に夏は去り、秋から冬へと季節は移った。この間、いくつかの部品が完成したが失敗したものも多かった。構造的には単純な2ストロークエンジンが、逆に掃気や一次圧縮の点に複雑な問題がいくつもあることが分かったのだ。楢蔵はいまさらながらに2ストロークをあまく見すぎていたことを痛感した。


日本初のオートバイエンジン

研究と試作が繰り返された。12月に入ったある日、苦労の末についに1台のエンジンが組み上げられた。さっそくテストが開始された。作業台にしっかり固定されたエンジンに燃料パイプとオイルパイプがつながれる。点火用の乾電池がセットされいよいよスタートとなった。始動はクランクシャフトに直接取り付けられたハンドルを回して行うようになっていた。全ての用意は調った。見守るのはアシスタントの2人だけだ。

楢蔵は「始めるぞ」と2人に向かって言った。2人ともじっとエンジンに目をやったまま期待に胸をはずませていた。楢蔵自身、今にも心臓が破裂しそうに鼓動していた。ゆっくりと手袋をはめてから、楢蔵はクランクハンドルをしっかりと握りしめた。勢いよくエンジンが回される。10回〜20回〜30回。たちまち彼の体からは汗が噴き出した。だがエンジンはプツンとも音を立てない。50回まわしても何の反応もないのを確かめると、楢蔵は手を止めた。「着火しない!」 その言葉に猪内が素早くプラグを外しにかかる。思った通りそれはすっかり濡れていた。「絶縁が悪いのかもしれない」 代わりのプラグが用意され、火が飛ぶのを確かめてから取り付けられた。この時、楢蔵は急に寒気がした。気がつくとさっきまでの汗はもうすっかり引いてしまっていた。今まで緊張のあまり気がつかないでいたが、12月の寒さはこの工場の中でも同じだった。この寒さが楢蔵にひとつのアイディアをひらめかせた。「アトマイザーを暖めてみよう。この寒さで気化しにくくなっているのかもしれない」 丹金工場の方にはストーブが置いてあった。そこから宮内少年がオケに湯をもらってくる。雑巾を湯につけ、良く絞ってからアトマイザーとシリンダーのまわりをくるんだ。楢蔵をはじめ猪内、宮内の3人とも祈るような気持ちで、かわるがわる熱い雑巾をエンジンに押しつけた。


驚奮

しばらくしてテストが再開された。今度も楢蔵がクランクを回す。全身の力がクランクにかけられた。次の瞬間、排気管から青い焔が出た。続いてパン!パン!パン!とはじけるような音がして、エンジンは不規則な回転を始めた。クランクを回す楢蔵の手に衝撃が伝わる。宮内少年が「回った!」と叫ぶ。丹金の工場からもエンジンの音を聞きつけて大勢の職人たちが駆けつけて来た。やがてエンジンは安定した回転を保ち始めた。楢蔵はようやく感激が胸の奥からこみ上げてきた。皆が口々に「おめでとう」と言って彼の肩をたたいた。じっと立っているのが不安でならなかった。この時の心境を楢蔵は後にこう書いている。

驚 奮 (島津楢蔵)

希望に燃え
希望に悩んだ半信半疑のこころみ
青い焔を吐きつつ
とぎれとぎれの爆音を立てて
処女作のエンジンが産声をあげた一瞬
全身の血潮は加熱し沸騰したのか
常態を失してもう大地に足がつかない
廻った廻ったとひとりごとを繰り返しつつ
自身が回転するように門外に飛び出し
飛び出しては戻るのであった
嬉しいばかりではない
始めて味わう驚きだ
驚奮が90パーセントで
喜びが10パーセントぐらいだ
不可能の境地から
可能の世界へ飛び込んだ気持ち
これを成し遂げたもののみがあじわう
大自然のたまものであろう



 こうして彼の、というより日本の第1号オートバイエンジンは明治41年の12月に完成した。楢蔵はこのわずか20歳でしかない。彼は早速、名古屋の鎌太郎に手紙を書いた。鎌太郎は手紙を受け取るとすぐに大阪へ駆けつけてくれた。鎌太郎に自分のエンジンを見てもらおうという楢蔵の夢はついにかなった。青い焔を吐きながらまわりつづけるエンジンは楢蔵の青春そのものだった。鎌太郎はいくつかの貴重なアドバイスを与えた。
「このエンジンを自転車に乗せて実験してみなさい。その方が問題点が見つけやすいですよ」
「ピアスの自転車が1台ありますからそれに載せてみます」
「フレームの補強は必要ないでしょう。エンジン位置をよく考えないといけません」
「早速明日から作業にかかります」

 その夜、鎌太郎と父の常次郎、それに猪内、宮内がそろってささやかな完成祝いをした。常次郎は息子の成功を素直に喜び、これからも研究を続けろと励ましてくれた。鎌太郎は、君のしたことは今は誰にも認められないが、きっと歴史に残ると確信を込めて言った。猪内と宮内も、これからも楢蔵を助けて仕事を続けて行きたいと言った。最後に楢蔵が今後の自分の目標を熱っぽく話した。
 祝いの席の後、鎌太郎は楢蔵の家に泊まった。二人は外国の雑誌に紹介されている欧米のオートバイについて語り明かした。
・ディトナビーチでV8オートバイを走らせたカーチス
・プジョーVツインが出した123.3km/hのスピード記録
・イギリスのオートバイ登録台数が本土だけで3万台を越えたこと
など話題は尽きなかった。この頃、欧米では驚くべきスピードで自動車やオートバイが普及していた。それに比べて日本では、楢蔵の造ったオートバイエンジンが純国産1号でしかなかった。この夜、枕を並べて眠った2人が見た夢は何であったろうか。


自働自転車第一号

 翌日から第1号エンジンを自転車に搭載する作業が始まった。これは思ったよりも容易だった。ただ、パワーを伝える丈夫なベルトを捜し出すのには苦労した。396ccのエンジンは、かなり重かったがピアス自転車のフレームは何とか持ちこたえた。
 こうして苦心の末、ついに夢にまで見た自働自転車第1号は完成した。そして試運転がなされた。だが、楢蔵にとって不本意なものでしかなかった。本来ならばこの自動自転車が国産オートバイ第1号になるはずであった。確かに車体にはアメリカ製の自転車が使われた。これでは国産とはいえないと言う人もいる。だが国産の自転車はかなり以前から市販されている。楢蔵がアメリカ製の自転車を使ったのは、たまたまそれが手近にあったからに過ぎない。先の鎌太の手紙にあった寺川ポンプや高木喬盛館のように外国エンジンをそっくりのせたのとはわけが違うのだ。
 今日、ロールスロイスのエンジンを積んだYS11が「国産旅客機」と呼ばれるならば、楢蔵の第1号2ストロークモデルも当然、国産オートバイと呼ばれなければならないだろう。だが、楢蔵自身がこの2ストロークモデルを国産第1号オートバイとは認めなかった。その理由について彼は次の点を上げている。
 第一に、これはあくまでエンジンの試験用に組み立てたこと。
 第二に、この2ストロークエンジンの性能には自分自身納得していない。
 第三に、車体に自転車を流用した。
 こうして考えてみただけでも、楢蔵がいかに自分に厳格であったか分かる。

 明治41年(1908)はこうして終わった。楢蔵にとってこの年は生涯忘れられない年になった。棚橋鎌太郎との運命的な出会いは彼の将来を決定づけた。そして大阪に帰ってわずか4ヶ月で、まがりなりにも独力でガソリンエンジンを完成させたことは彼に大きな自身を持たせた。
 「来年こそは必ず本格的な純国産オートバイを造ってみせまう」
 楢蔵は、その年の暮れ鎌太郎にこう書き送った。


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