私的二輪史研究
「日本のオートバイの歴史」

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オートバイにかけた青春 「島津楢蔵物語」
三輪 研史 (日本二輪史研究会代表)


オトキチドクター

 明治41年(1908年)初夏。名古屋の街を一人の青年が歩いていた。彼は精悍な顔立ちと大柄な体格で、若者らしく足早に道を急いでいた。青年はきちんと洋服を着て靴を履いていた。道行く人たちはそんな彼の洋服姿を珍しげにながめた。この頃、洋服を着ている人は非常に少なかったのだ。彼の名は島津楢蔵、20歳。この4月に奈良の学校を卒業して名古屋にある「豊田織機」に入社したばかりである。

 当時、日露戦争が終わって3年目。名古屋の町並みは現在では想像もつかないほど静かなものだった。通りを行くのは、歩行者と人力車、それに時折りみかける大八車くらいのもので、自転車さえ珍しかった。このころ、自動車やオートバイは日本中に数えるほどしかない。楢蔵は、先輩に書いてもらった地図をたよりにある家を捜していた。東区高岳町をあちこちと歩き回ったあげく、彼はようやくのことで目的の家を見つけることができた。大きな門には「棚橋医院」と書いた看板がかけてある。彼は立ち止まり、ポケットから取り出した手ぬぐいで汗をふいた。

 彼が「棚橋医院」に来たのは病気を診てもらうためではなかった。先日、会社の先輩が、この病院の先生のうわさ話をしていたのだ。それによると、ここの先生は自転車やオートバイが大層好きで、自分でもオートバイを所有しているとのことだった。その話を聞いたとき、楢蔵は是非いつか会ってみたいと思っていた。日がたつにつれ、彼の思いは募るばかりだった。そして今日、どうにも待ちきれなくなって訪ねてきたのだ。 楢蔵は門の外に立ったままそっと中をのぞいた。右手の病院らしい建物の前に自動車が2〜3台並んでいた。彼はそれを見ただけで心臓がドキドキし、駆け寄ってみたい気持ちをおさえるのに苦労した。

 門をくぐると、左側「待合室」の札がかかった建物があった。入り口には外来患者達のゲタや草履がたくさん並べてある。楢蔵はこれほどおびただしい数のはきものの群をみたことがなかった。このことだけで、彼は自分が何か大変なところに来てしまったような気がして心細くなった。これだけの患者を集めることのできる棚橋鎌太郎という医者がどんな人物なのか、彼には容易に想像ができた。楢蔵はこんな忙しい時に来てしまったことをいささか後悔した。

 待合室の中は畳敷きになっていた。そこには入り口で見た履き物の数だけの患者たちが診察を待っていた。受付の看護婦さんに来意を告げる。 「島津と申します。先生に自動自転車のお話をうかがいたいと思って参りました。よろしくお取り次ぎ下さい」。 待合室の患者達は場違いな用件を告げる青年を不思議そうにみた。しばらくしてもどってきた看護婦さんは、彼に「診察室に入ってください」と言った。これほど簡単に会ってもらえるとは思ってもみなかっただけに楢蔵は驚いた。待合室のおくの部屋が診察室だ。ドアを開けると20畳ほどの広さの板敷きの部屋の中に何組かの机といすがあった。壁際には薬品や医療器具の棚がずらりと並んでいる。中では2人の医師と3人の書生らしき若者、そして4人ほどの看護婦がそれぞれ患者の相手をしていた。楢蔵は入り口に立ったまま、2人の医師のどちらかが目的の人物なのかなと見くらべた。看護婦の一人が近づいてきて、彼に少し待つように言った。「どの方が棚橋先生ですか?」 そう質問すると、看護婦はそんなことも知らないのかといいたげな顔をして彼を見た。「あの奥の窓際にいらっしゃる方がそうです」。 それだけいうと彼女はいそがしげにどこかへ行ってしまった。
 
 楢蔵は、謙太郎と教えられた人物を注意深く観察した。その先生は髪を少し長めに伸ばし、口ヒゲをたくわえた知的な顔立ちをしたまだ若い人だった。 鎌太郎は紋付き、羽織、袴を着てその上に白い上着を引っかけていた。この先生、西洋の新しい機会が大好きというのに、洋服だけは大嫌いだった。それでもオートバイに乗るときだけはしぶしぶ洋服に着替えていた。 鎌太郎はさきほどからイスにかけたまま一人の患者の眼をしきりにのぞき込んでいた。この先生の専門は眼科なのだ。棚橋鎌太郎は慶応4年生まれの41歳。愛知医学校を卒業後、同校の助教授、教授をつとめ。のちに自宅開業。この先生、本職の医者としての腕は第一級で眼科はもちろん、内科、外科となんでも専門だった。そればかりか、機械についても天才的なところがあった。写真機については明治20年頃からすでに愛用していたし、時計の修理などもお手の物だった。そして、本職のいしいじょう(?)にすぐれた腕前を見せるのは、自動車、オートバイなどの修理だった。 病院の入り口に並んでいた自動車はこの病院に修理のために来ているもので、いわば鎌太郎の「患車」なのだ。こうした患車たちはこの先生に病気をみてもらうために、遠く大阪などからもやって来る。大八車に乗せられてガラガラ運ばれてくるオートバイもあった。

 看護婦に何か指示を与えてから、鎌太郎は立ち上がって彼のもとにやってきた。「君ですか、自動自転車に興味があるというのは」。「島津です。お忙しいところを恐縮です」。「こちらに来ておかけ下さい。ただし見てのとおり患者さんがいっぱいなので診察しながら話をしますよ」。そう言って鎌太郎は彼を診察台の近くのイスに案内した。楢蔵の予想どおり、この先生はすばらしい人物だった。静かなものごしのどこにそんな情熱を秘めているのか、鎌太郎の言葉のひとことひとことに彼は圧倒された。楢蔵の知りたかったことや疑問点を鎌太郎は親切に解き明かしてくれた。前年から始まった英国マン島TTレースの話とかベルギーで市販されたFNフォアのこと、そして石川商会が輸入したトライアンフの売れ具合。山羽虎夫、内山駒之助など自動車を造っている人たちのことなど、話題はつきなかった。鎌太郎の方も、最初はただオートバイ好きの青年だと思っていた彼が、意外に熱心で深い知識を持っていることに驚いた。それもそのはず、楢蔵は少年の頃から機械、特にオートバイという乗物に大きな興味を持ち続けていたのだ。




少年時代

 島津楢蔵は明治21年(1888年)大阪に生まれた。父親の常次郎は日本でも指折りの貴金属工芸品メーカー「丹金商店」の番頭をしていた。父親は可愛がっていた楢蔵を丹金の工場へよく連れて行った。幼い日の彼は旋盤やボール盤、プレスなどの機会の動きを工場の隅でいつまでも飽きずにながめて過ごした。

 15才の時、父親は彼にアメリカ製の高価なピアス自転車をプレゼントした。当然、楢蔵少年はこれに夢中になり桜島で開かれた自転車レースに参加したりした。もうひとつ、彼の将来に影響を与えるできごとがこの年に起こった。それは彼とオートバイとの最初の出会いだ。ある日、楢蔵は新聞を見て「不忍池にて自動自転車の模範走行」という記事をみつけた。自動自転車というものの噂は彼も聞いていた。だが、まだ一度も実物を見たことはなかった。自転車に熱中していた楢蔵にとって「自動自転車」という名前は、何かもっと素晴らしいものを連想させた。彼の頭からは「自動自転車」と書かれた新聞の活字がこびりついて消えなかった。楢蔵は考えた末、父親に相談してみた。常次郎はどうしても見たいのなら行って来いと東京行きを簡単に許してくれた。

 この時代、東京ー大阪間の鉄道は片道15時間を必要とした。15才の少年が旅するのは決してたやすいことではない。だが、自動自転車を一目みたいと願う楢蔵の強い気持ちは時間と距離の壁を吹き飛ばすだけのエネルギーを持っていた。少年時代の楢蔵は、西郷隆盛、ニュートン、中江藤樹などの人物に強く惹かれていた。中でも西郷を深く尊敬し、彼のことならおどろくほど何でも知っていた。後に(大正14年)自作のエロファースト号で鹿児島ー東京間走破のデモンストレーションを行った時、スタートに彼が選んだ場所は、西郷が最後をとげた城山であった。

 不忍池では自転車レースのアトラクションとして、アメリカ製のミッチェルというオートバイが走った。この日、オートバイというものをひとめ見ようとする観衆で、不忍池の回りは埋まった。操縦したのはボーンというアメリカ人だった。ミッチェルオートバイは自転車に毛の生えたようなものだったが、楢蔵少年は初めてみるオートバイに息が詰まるほど感激した。アトラクション走行は、池のまわりを5周しただけで終わった。

 大阪に帰ってからも、楢蔵の頭の中はオートバイのことで一杯だった。「あのエンジンはどうして動くのか・・・」。「自分にも乗れるだろうか・・・」。そんな思いをめぐらせて、彼は毎日手当たりしだいに関係のありそうな本を読みあさった。16才のころには、丹波敬三著「物理学」上、中、下、石井研堂著「瓦斯の巻」などをもとに、直流モーターや電池を作ったり、石炭ガスを爆発させる実験を試みたりした。そして学校も機械に関係したところを希望して、わざわざ奈良の御所工業学校を選んだ。

 父親は彼に貴金属の商売をつがせようとして、商業学校をすすめたが、彼の決意は固かった。普通の親ならこうした場合、いうことを聞かぬ息子にはつらく当たるものだが、この常次郎という人は違っていた。彼は父親である以前に楢蔵の良き理解者だった。常次郎は昭和13年に他界するまで、精神的、経済的ささえとして楢蔵の協力者といってよいほどの働きをする。


「エール・カルフォルニア」

 夕方近くになって、ようやく診察が終わった.鎌太郎と楢蔵は連れ立って外に出た。楢蔵が先生の愛車を見せて欲しいとたのんだからだ。自動車が並べてある横を通り抜けるとその奥が先生の自宅になっていた。裏側に小さなガレージがあった。案内されて中をのぞくと、薄暗がりの中に真鍮製のタンクを輝かせたエールがいた。それはまるで手術器具のようにみがかれ、鈍く輝いていた。

 鎌太郎はよく見えるようにといってエールを外に出してくれた。そして、ひとつひとつの部品名とその働きを彼に説明した。このエール・カリフォルニアは当時のオートバイ先進国アメリカ製だった。エールというメーカーは今日ではほとんど知られていない。だが、当時エールは世界で最もすぐれたオートバイメーカーのひとつだった。「エンジンをかけてみましょうか」。そう言って鎌太郎は病室の方に向かって手を振った。たちまちバラバラと5人ほどの若者が駆けてきた。この病院の入院患者と書生たちだ。先生の助手として自動車の修理を手伝うのを何よりの楽しみとしていた。中には、入院中に修理を覚え、のちに自分で修理屋を始めた人も3〜4人いたというから驚く。

 備え付けのスタンドが用意され、エールはその上に後輪をのせられた。タンクに燃料とオイルがそそがれる。当時ガソリンはまだ日本に入っていない。使われたのはスタンダードのミネラルコルザというガソリンまがいのものだった。この燃料は揮発性が高いので、そのころのヴェイパライザーと呼ばれる幼稚なサーフェイスキャブレーターにとって好都合だった。鎌太郎の手によってサドルの後ろのバッテーリーボックスに乾電池がセットされる。この乾電池はイグニッション用のもので先生の手製だった。当時市販の乾電池などは無い。この乾電池をつくるにあたり、鎌太郎は外国の技術雑誌を読んだり図書館に通ったりしてたいへんな苦労を重ねた。のちに大阪の屋井氏「屋井乾電池」という会社を設立するきっかけとなったのは鎌太郎の自作乾電池に影響されたからである。最後に小箱から取り出されたプラグがセットされた。このスーパープラグも先生の手製だった。それは絶縁物に雲母を利用して、工芸品と言っていいほど精密に作られていた。 

 これらの作業を楢蔵は立ちつくしたまま手品でも見るように茫然としてながめていた。着替えにいった鎌太郎が戻ってきた。上は紋付きにタスキがけ、下は白のメリヤス股引といったスタイルであった。やがて、全ての準備が整ったエールに先生がまたがった。後輪はスタンドしたままだ。燃料とオイルのコックが開かれた。リフターを操作しながら先生は勢いよくペダルをこぎ始めた。充分弾みのついたところでリフターを離す。「パン。パン!」と甲高い音を立ててエンジンが動きかける。皆、息を殺してそれを見守った。しばらくペダルを回し続けると、エンジンは安定した爆発を続けるようになった。取り囲んだ患者や書生たちから一斉に拍手がわく。

 楢蔵はエールをじっと見つめていた。この小さなエンジンはおそらく200cc位の排気量だろう。真鍮製のクランクケースがにぶい山吹色を放って美しかった。アウターホイールがコマのように回転している。オイルが焼ける匂いと排気ガスのあまい匂いが見守る者たちを静かに包み込んだ。



試乗

 「乗って見ますか?」 鎌太郎が額に汗を浮かべながらそう言った。突然のことに楢蔵は驚いたが反射的に彼は大きくうなずいていた。「これで混合気の量を加減し、こっちで着火時期を調整するのです」 そう言って鎌太郎はタンクの脇に2本レバーを動かして見せた。エンジンは彼の操作によって回転をかえた。「エンジンを止めるときはハンドルの右側のこの電気回路のスイッチを切ります」。スイッチを押すとエールのエンジンはプツンと止まった。「左のレバーはリフターですからスタートの時はこれを使ってください」。説明が終わると、鎌太郎は助手達にエールを表通りに出すように言った。

 楢蔵にとって生まれて初めてのオートバイ走行だった。彼は少し緊張し、恐怖さえ感じた。果たしてうまく乗れるかどうか心配だった。「なあに自転車競争に出たことがあるなら楽なものですよ。それに君はエンジンについても詳しいから」。 鎌太郎は彼を元気づけるように言った。スタートの用意はできた。楢蔵はサドルにまたがり、リフターを握って表通りをこぎ出した。書生の一人が後を押してくれる。スピードがついたところで、言われたとおりペダルをこいだままリフターをそっと離す。よく暖まっていたエンジンはパンパンパンと気持ちよく回り始めた。28インチの車輪のせいで車高はおそろしく高かった。だが、エールは思ったよりうまく走った。徐々にスピードを上げながら楢蔵は快適に夕闇せまる表通りを飛ばした。両側に並んだ家から、一斉に顔がのぞく。道行く人たちも聞き慣れない音を立てて走って行くおかしな乗物を見て、立ち止まり通りすぎて行くのを待った。道はあまりよいとは言えなかったが、エールのフロントフォークには、簡単なスプリングが装備されていたので、その乗り心地は楢蔵がこれまで乗ったどの自転車よりも素晴らしかった。乗る前に恐怖を感じたことなどウソのように思えた。走りながら、彼は今まで長い間自分が捜し求めていたものにようやくめぐり合ったような気がした。楢蔵はこみ上げてくる不思議な感動について考えてみた。これは今まで彼が体験したことのない種類のものだった。15歳の時、不忍池に出かけて、オートバイを初めて見たときの感動とも少し違っていた。何かしら、今まで夢でしかなかったものが、急に手に届くところにやってきたような気持ちだった。この時、20歳の青年・島津楢蔵は、宿命的な何かを感じ、はっきりと自分の将来がオートバイの中にあることを悟っていた。


天職

 この日を境に、楢蔵の病院がよいは続いた。出かけるたびに山のような質問が用意され、帰りには彼の頭の中にその答えが詰まっていた。診察室、ガレージの中、庭、先生の部屋、そして路上でと時間と場所を選ばずすべてが彼の勉強の場になった。鎌太郎も彼の熱心さに強く心を動かされ、自分の知識のすべてをこの青年に与えようとした。この2人にとってオートバイはだだの乗り物ではなかった。それは男が、「一生の大事」とするにふさわしい機会であり彼らの「無限探究精神」を満たしてくれる乗り物だったのだ。こういった考え方をしていた者は当時彼らの他はほとんどなかったろう。そのことからも楢蔵と鎌太郎の親交はますます強いものになっていった。楢蔵は一人になったとき、なぜ自分がオートバイに魅力を感じるのかを考えてみた。単に珍しい機会というのなら、他にも新しい機械がたくさんある。自分がオートバイを好きになった原因はもっと他のところにあるような気がした。オートバイが好きだと言うことは、オートバイの中に自分の心を動かす何かがあるということに他ならない。それならば、オートバイについて深く考え、追求してゆくことは結局自分自身を知ることに繋がるはずだ。オートバイを愛し、それに向かって進むことは自分を認識するための行為に他ならないのだ。楢蔵はこのことに気づいたとき、自分の目の前がはっきりと明るく開けるのを感じた。

 8月に入ったある日、楢蔵は重大な決意を胸に通い慣れた門をくぐった。名古屋に来てようやく4ヶ月になろうとしていた。診察室は相変わらず混んでいた。いつものイスに座って挨拶を済ませと、楢蔵は話し始めた。「先生、僕は大阪に帰ろうと思います」 鎌太郎は突然の言葉に驚いて振り返った。「どうしたのですか、急に」 「こちらに就職してまだ4ヶ月しかなりませんが、今の仕事を辞めてやはり自分の好きな仕事をしたいのです」 「オートバイを作るのですか」 「そうです」 「お父さんはご存知なのですか、このこ事を」 「ええ、どうしてもというなら仕方がない。ある程度の援助はしてやろうといっています」 「それなら問題はないではないですか。あなたなら必ず成功します。ぜひやりなさい」 「まずは最初に2ストロークエンジンを作ってみるつもりです」 「工作の簡単な点で初めはそれがいいでしょう。材質に注意して理論通りにすればきっとうまく行きます」 「これまで先生に教えていただいたことを参考にして、必ず完成させて見せます」 「期待していますよ。君が大阪に帰ってしまうのは淋しいですが、第1号車が完成したら、私の方から大阪に見に行きます」 帰り際に鎌太郎は彼に1冊のノートをプレゼントした。そこには鎌太郎がこれまで手がけてきた自動車やオートバイの修理記録が細かくメモされていた。楢蔵にとって、それは何よりの贈り物だった。彼はそのノートを受け取ると胸が熱くなり、もう何も言葉にはならなかった。もう一度鎌太郎に頭を下げると楢蔵は足早に表に飛び出した。門を出たところで病院の方から彼を呼ぶ声がした。振り返ると病室の窓から親しくなったオトキチ患者や書生達が手を振る姿が見えた。


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