校歌制定!

(制定に関する経緯は、昭和55年7月に当時の同窓会長・奥昌一郎先輩より聞いた話です。)


 県立福岡中学の創立10周年記念式典が、明治44年(1911)4月28日に挙行された。この日に歌われたお祝いの歌が、いわゆる校歌である。

 校歌の作られた経緯は以下の通りである。作詩者は、国漢担当の疋田剛三先生と在校生有志である。最初、青木校長は祈念式歌の制作を各先生方に命じたがなかなか気に入った歌ができなかった。式典の日は迫り、在校生の有志が疋田先生の自宅に馳せ参じ、福中創立の基本理念や自分達の理想を書いてくださるように要望した。

 先生は酒豪であった。この時もかなり酔っぱらっていたが、生徒の要望を受けて一気呵成に第一節と第二節を書き上げた。そして、生徒達に残りの一節を考えておけと言って一睡された。やがて目を覚ました先生は、生徒の作った文句に感心しほとんど手直しもせずに完成させた。

 こうして一夜でできた詩が青木校長の意にかない、第一高等学校寮歌のメロディーで歌われることとなった。歌詞がどことなくぎこちないにもかかわらず、どこか清新で学校建学の精神が歌い尽くされている。

注目
 さて、同窓生に質問。在学中は校歌の三節はどのように歌っていたであろうか?。「義憤の大作時の傑 九戸古城君見ずや」だったと思うのだが。現在の歌詞は「義憤の大作時の傑 九戸古城君見ずや」と歌われている。意味はさほど違わないかもしれないが、最後の「国士の・・・・」が指しているのは相馬大作と九戸政実に他ならない。

 校歌が披露された明治44年4月28日、その式典に出席した奥昌一郎氏は、「九戸古城主だった。」としっかり覚えていたし、戦前の卒業アルバムには「古城主」と書かれている。なんの疑いもなく「古城址」と歌っているとすれば残念なことである。

 余談であるが、県内2番目に開校した一関中学(明治31年開校)も同じメロディーの校歌を歌っている。出だしは確か「岩手、磐井の一関・・・」。県内の南北に位置する伝統校が同じメロディーを歌っていることに何かの因縁を感じる。元歌は第一高等学校の「春爛漫の花の色」であるが、この曲もA曲とB曲が存在する。一関はA曲、福岡はB曲を採用している。 

福岡高校(中学校)校歌

岩手の北台天下の鎮
降るや嶽神雲薫り
湧くや霊泉龍踊る
自然の精霊鐘りて
天地の威徳象れる
我が中学(高校)や国の誇示

三綱の柱太しりて
五目の甍聳ゆなり
ああ荘厳の我が校や
偉人の事業実の学
学ぶ鳳雛のはばたくや
習ふ龍駒の駆るかな

義憤の大作時の傑
九戸古城主君見ずや
無量の感慨胸を衝く
いざや稜威を戴きて
天の使命ぞ果たさなん
国士の気魄我が理想
いわてのほくだい てんかのちん
くだるやがくしん くもかおり
わくやれいせん りゅうおどる
しぜんのせいれい あつまりて
てんちのいとく かたどれる
わがちゅうがくや くにのこじ

さんこうのはしら ふとしりて
ごもくのいらか そびゆなり
ああそうごんの わがこうや
いじんのじぎょう じつのがく
まなぶほうすうの はばたくや
ならうりゅくの はしるかな

ぎふんのだいさく ときのけつ
くのへこじょうしゅ きみみずや
むりょうのかんがい むねをつく
いざやみいつを いただきて
てんのしめいぞ はたさなん
こくしのきはくわがりそう

新制高校に移行とともに、第一節の「我が中学や」の部分を「我が高校や」変えて歌う。

校歌の大意

我が校は天下の中心地たる岩手の陣馬台にある。
古来より山水秀麗な地域には偉人を生むと言われているが、
この岩手の北にある陣場台はまさにその地である
このような土地に設立された我が校は国(地域)の誇りである。

我が校は、三綱五目という太い柱と高い甍(校訓)によって支えられている。
その校訓によって支えられている姿はなんと厳かであろう。
偉人の後をしのび、実用の学を修める生徒は大鵬の雛である。
その姿は龍馬の子である。

一介の浪人で10万石の大名と堂々と渡り合った相馬大作は郷土の英傑である。
九戸城主・政実の気骨の逞しかったことか。
郷土の英傑のことを思えば感慨無量、胸が高鳴る。
いまこそ天命をいただき、我々の使命を果たそうではないか。
国(地域)を背負って立つ国士の気迫こそ我々の理想である。


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