最後のストライキ計画

 さて、母校応援団や野球部の歴史について調べるきっかけになった事件について書きたい。たぶん同級生は記憶にあるかと思うが、昭和55年の春季高校野球(選抜でない)岩手県大会も見事に優勝し、東北大会も決勝まで駒を進めた。決勝戦は岩手県営球場で東北高校と対戦することになった。ここで思わぬハプニングが起こった。本来であれば決勝戦は日曜日に行われる予定が、雨のために一日順延し月曜日の決勝戦となったのだ。

 決勝戦当日の月曜日、この日も雨でさらに1日のびて火曜日に順延となった。しかし、この順延を知らずに県営球場に集まった生徒は約200名で、全員が善意の欠席であった。この多くの欠席者に学校長はひどく怒り、火曜日に行われる決勝戦の応援に授業をさぼって行ったものは断固たる処分を下すと先生方に伝えた。先生方は、自分の受け持ちの生徒一人一人に電話をし、校長の決定を伝えるとともに、火曜日の朝から、「金田一」・「斗米」・「北福岡」の各駅で生徒を待ち伏せていた。

 生徒もその裏をかいて、一戸や三戸から乗る者、親から連れて行ってもらう者など、学校側と戦っていた。先生方も、校長の意向の通り生徒を制止する先生もあれば、「頑張ってこい」と言って見て見ぬ振りを先生などあったらしい。結局、球場に集まった者は約100名+OB/OG約40名。

 しかし、これだけでは終わらないのが当時の福高生。生徒の大半がテレビ中継のある午後1時に合わせて早退してしまった。我がクラスなど4人しか午後の授業を受けなかったらしい。結局、決勝戦当日に学校に残ったのは300名ぐらいだったようだ。(当時の全校生徒は約1100人) 試合は最終回サヨナラで敗れてしまった。3−4という接戦だった。

 次の日は緊急の職員会議が行われて、応援に行った者は3日間、早退した者は1日の停学に決定しそうになったらしい。ただし、あまりにも該当者が多すぎて最終的な決定は翌日に持ち越された。その日の放課後、応援団顧問のO先生に呼ばれた。そこにはD先生も同席していて職員会議の経過を教えてくださった。そして、D先生からは生徒の代表者として何か行動を起こしてみたらどうかと助言していただいた。

 生徒の間では処分を不服として、陣馬山に立て籠ってストライキをしそうな勢いだったが、野球部後援会の有力者が「悪いようにはしないから、形だけでも謝罪しろ。」と助言してくれた。

 次の日の朝、校長の到着を待ち話し合いがもたれた。「今回の応援に参加した者は、私の指示によるものなので彼らを処分する前に先ずは私から処分してください」と訴えた。それから約1時間ほどの話し合いの結果、応援に行った者は職員室前で3時間の正座、早退した者は反省文ということで落ち着いた。ただし、私には別の宿題が渡された

・夏休み中に7日間ほどの奉仕活動(甲子園に行ったために免除)

・応援団の歴史に関する調査

・野球部の歴史に関する調査

・地区民の選手や審判に対するヤジの是正

 この日以来、毎日のように校長から呼び出しがあった。「応援団長、職員室、中村(当時の顧問)まで!」という放送がある度に生徒は笑っていたらしい。

 今から考えると何とも無謀な行動だった。おそらく水面下では校長と後援会で解決策が話し合われていたはずだ。そのことを知ったのは、卒業してから20年後の事だった。



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