ストーム 昭和54年の敗戦

岩手のバンカラ云々という場面で、何かと昭和末期のボロ服が取り上げられることがある。誤解を恐れずに言わせてもらえれば、昭和50年代前半まではボロ服は存在しなかったがが、あることがきっかけで一気に増えたのである。 

1979年(昭和54年)夏の甲子園予選で福岡高校は優勝候補の一角だった。優勝候補の筆頭は盛岡工業で、後に西武ライオンズに入団する田鎖投手を擁する強豪チームだった。それに次ぐチームとの前評判だったのが我が校だった。

 昭和51年、52年と岩手県大会決勝で敗れ、この年は三度目の正直という感じでなんとしても甲子園へ出場を果たして欲しいと生徒はもちろん、地区民の期待も大きかった。

 野球部は奮闘し、住田高校との歴史に残る雨中戦を制し順当に準決勝に駒を進めた。準決勝の第一試合は盛岡工業対久慈高校戦。この試合で番狂わせが起こった。盛岡工業が0−2で敗れたのである。今から考えると久慈高校も決して弱いチームではなかったが、野球部の選手、在校生や地区民も何となく準決勝を突破すれば決勝戦は楽勝と思った。準決勝は10−0で水沢高校を退けた。

 いよいよ決勝戦。負けるはずのない相手だった。しかし結果は1−3の敗戦。「三度目の正直」が「二度あることは三度ある」になってしまった。北福岡駅(当時)での報告会では、一通りの報告とストームで解散した。

 しかし、三年生は収まらない。有志が声をかけ第二グランド(現在の横山グランド)で夜を徹してのストームをやることとなった。二年の我々も何人か参加した。「俺たちの悔しさを来年こそは晴らしてくれ」と三年生から言われ、「来年こそは甲子園に行きます」と応える二年生であった。

 ストームが始まった。涙で上手く歌えない。それでも20曲以上の応援歌を歌った。それでも三年生はストームをやめようとしない。手の握力は無くなり学生服は破れる。結局終わったのは朝の4時頃であった。延々と6時間以上もストームを組んだのである。

 地区の人や警察もやってきたが、今夜だけは大目に見るということでおとがめは無かった。その時、たくさんの破れた学生服ができあがった。その学生服を我々二年生に預け、「来年の甲子園にはこの学生服を着て行ってくれ」と三年生は言った。ただ汚いだけに見える破れた学生服にもその由来があったのである。

 それがいつの間にか伝説化し、先輩から代々伝わっているという都市伝説が生まれた。その伝説は昭和60年の甲子園出場で、行軍と共に伝説として世間に広まってしまった。




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