南部内七郡について

 天正18年(1590)に南部信直は小田原に参陣し、豊臣秀吉から南部内七郡の所領安堵を受けた。これによって九戸政実の独立大名としての道が閉ざされ、天正19年(1591)の九戸一揆につながるのである。

 このときに安堵された「南部内七郡」は具体的な記述が無く、どの郡をいうのか史家の間で見解が分かれているのである。その説を大きく分けると糠部郡を単独の郡と考えるか、糠部郡を四郡に分割して考える説である。

 糠部単独説は糠部、鹿角、岩手、閉伊、志和、稗貫、和賀などで南部七郡を構成していたとする説である。

 一方、糠部四分割説によると糠部は二戸、三戸、九戸、北の四郡に分かれていて、糠部四郡に鹿角、岩手、閉伊の七郡で、志和、稗貫、和賀を領したのは九戸一揆の後だったとする説である。

 
 糠部単独説は、天正20年に書き上げた「諸城破却共書之事」を根拠として、それにかかれた城の肩書きは、稗貫郡、和賀郡、閉伊郡、志和郡、岩手郡、鹿角郡、糠部郡となっていることを根拠としているようだ。この当時、二戸、三戸、九戸、北は郡を称していないから、七郡は糠部、鹿角、岩手、閉伊、志和、稗貫、和賀としている。

 糠部四分割説は、和賀郡、稗貫郡は稗貫氏、和賀氏の所領であり、九戸一揆後に北奥羽平定の功により、津軽の独立で津軽を失った南部氏に対して稗貫郡、和賀郡、志和郡を与えたとする説である。

 両方の説を検証すると、根本的な相違は天正18年に所領安堵の朱印状が発給された段階で、和賀郡、稗貫郡、紫波郡が信直の所領であったかどうかが問題である。さらに糠部郡がどの段階で二戸郡、三戸郡、九戸郡、北郡が分立されたかが検討する必要がある。

 天正167月に信直は志和郡を攻めて、領主であった斯波氏を滅ぼしたのであるから、志和郡は信直の領地として認識されていたと思われる。さらに天正18年に起きた秀吉の奥州仕置きでは、和賀と稗貫は領主が追われ、秀吉により正式に南部氏の所領と認知された。つまり天正18年の時点で、志和、稗貫、和賀地方は南部信直の領地として安堵されたのである。

それでは、信直に安堵された南部内七郡が糠部、鹿角、岩手、閉伊、志和、稗貫、和賀だとすれば、どの段階で糠部郡が四郡に分割されたのであろうか。次回に考察してみる。





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