秀吉軍の謀略

九戸城を攻めた秀吉軍の周辺事情は、冷秋が加わり不利な状況になるばかりであった。そこで秀吉軍の責任者である蒲生氏郷と浅野長政は、密議によって偽装和平工作を打ち出すこととした。使者は南部信直の進言により九戸氏菩提寺の長興寺の住職が選ばれた。

長興寺の薩天和尚は、政実とは旧知の間柄であり、この当時は72歳だったといわれる。薩天和尚が持参した降伏勧告文は、政実一人が腹を切れば部下も家族も助命され、加増もされるはずだった。

これに反対したのは政実の実弟・実親だった。

 「敵の勧告は信じられない。小田原の北条攻めでも明らかなように、謀略は上方軍の常とう手段である。」と主張した。

九戸政実も、「たとえ上方軍が許したとしても、信直が許すはずがない。」と考えた。このまま籠城をして冬を越せば、伊達政宗の援軍が来るかもしれないと考えた。


 秀吉軍が九戸城を包囲したのが92日、落城が決定したのが9月4日、現在の暦で言えば104日であった。政実以下八人の武将は、髪を剃り浅野長政の陣に出向いた。鉄砲隊に包囲され武装解除された。城中の九戸一党は老若男女を問わず二の丸に押し込められ、四方から火を放たれた。捕らえられた九戸政実以下の武将は、栗原三の迫まで護送され、豊臣秀次の命令によって処刑された。

浅野長政は当初は約束通り助命し、栗原郡に領地を与えるつもりだったともいわれるが、それを察知した伊達政宗が秀次に処刑を進言したといわれる。

幕末期に陸奥福岡を訪れた長州萩の小倉健作は、九戸の武勇を称えて九戸城懐古詩を作った。田中館愛橘はその詩がお気に入りで、何度も繰り返して諳んじたといわれる。

 九戸城懐古詩  (田中館愛橘意訳)

 山川の護る姿や九戸城
 二万の兵を支え得て
 はるかとなりしも手をのばし
 武勇をきそえるかいもなく
 事をあやまるしこ法師
 君ももろともに散る花の
 名のみ残れますらを
 誰か弔ふ城あとの
 夜半の嵐を古狐鳴く





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