九戸系譜の疑問 小笠原氏の末裔か

通説では、九戸氏は南部氏の始祖光行の五男・行連を祖とする南部氏の族で、代々北奥の九戸を領知し九戸氏を称したとされている。鎌倉中期以降、初代行連より最後の当主政実まで十一代にわたって連綿したというが、累代の事蹟は不明な点が多い。

政実のころの三戸南部氏は二十四代である。九戸氏が一代あたりの在位期間が、三戸氏の倍以上である。南部家の分家だとしても、分かれたのは初代ではないと考えれば筋が通る。

諸国が戦乱に明け暮れるようになった室町時代の中期、七代の光政は三戸南部政盛の庶長子に生まれ、九戸氏を継いだものといわれる。もしかすると、この時に分かれ、以後に九戸を名乗ったのかもしれない。光正は大名館が居館であったとされ、その場所は、現在の九戸郡九戸村の長興寺がある場所だと考えられる。

この光政が本拠を代々の大名舘から、二戸の白鳥城に転じたとの伝承もある。この城はその後に宮野城と称され、戦国時代になると九戸城と呼ばれるようになった。光政の娘は久慈備前守に嫁ぎ、以来、九戸氏は久慈氏との姻戚関係を濃くし、二戸郡から九戸郡にかけて勢力を増すことになる。

光政の曾孫連康の代になると、二男兼実に姉帯を領知させ、姉帯城に居住させた。このころから九戸氏の勢力は南部領内でも優勢となり、姻戚関係も北は金田一城主の四戸氏と結び、南は不来方城主福士氏および高水寺斯波氏と関係するなど、三戸の南部氏宗家をしのぐほどの勢いを示すようになる。

 「系胤譜考」は行連━連実━武蓮━連元━元実━光康━光政━連康━信実━信仲━政実と11代を載せ、『参考諸家系図』所載系図もこれに近い。一方、『奥南落穂集』は政実までを14代としており、記録によりより世系は錯綜している。多くの資料はこれらに準拠しているのが多い。

小笠原系図では九戸氏の祖を結城親朝の侍大将小笠原政康としている。親朝が九戸に所領を有したことを考え合わせると興味深い伝承である。姉帯氏の伝承と共に今後検証に値するものである。

永禄六年の光源院殿御代当参衆並足軽以下衆覚には、「関東衆」として南部大膳亮(晴政)と並んで「九戸五郎(奥州二階堂)」の名が見える。

「九戸五郎」が、九戸氏嫡流の最後の政実か、その父信仲と考えられるが、九戸神社に伝存する棟札からかんげて政実が有力であるとされる。しかし、九戸神社の建立した時は、政実は三才であり、神社建立の大旦那とは「考えにくいことから信仲とも考えられる。室町幕府が九戸氏を三戸南部氏と並んで糠部郡を二分する一方の勢力と認定していたことは間違いない。





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