九戸政実物語  その2

 九戸政実の決起は、天正19年(1591)に起きた争乱である。南部家の第25代晴継が没した後、南部家を誰が相続するかで争い、最後は南部信直が相続した。

 それに異を唱えたのが九戸政実であった。九戸実親(政実の弟)を推していた九戸党が、信直の相続を不服として南部家に対して反旗を翻し、最終的には信直を支援する豊臣政権の軍勢が九戸城を攻略し、降伏した政実以下を斬首して解決したということが通説になっている。

 九戸政実が九戸城に籠もって豊臣勢と戦ったのは、間違いない史実だが、そのときの当主が「政実」であったかどうかは、実は確実な証拠がない。亡くなった年齢の辻褄が合わないのである。

 「政実の名」は、天文7年(1538)の日付で九戸神社に伝わる建立時の棟札で確認できるが、実はその札だけなのだそうだ。

 その札には、「大旦那源政実」と記されている。「大旦那源政実」とは、源氏の血を引く政実という意味である。

 通説では、政実は56才で処刑されたと伝わっている。

 そうすると、天文7年(1538)は3才ということになり、果たして「大旦那源政実」と名乗り、神社を建立したとは考えにくい。

 棟札の政実は、当時の成人年齢に達していたと考えると、この札の意味が重要になってくる。既に元服していたとは考えられないだろうか。

 津軽家文書』によると、永禄10年(1567)、政実が一戸大和守宗綱を攻めた時、宗綱の二男勝五郎(11歳)が、九戸の二男を射取ったと書かれている。戦場に出るくらいであったから、この九戸の次男は15才以上と思われる。

 すると長男は18才ぐらいと考えられるのである。政実の実年齢は、通説よりも高かったのでははいか。

 政実が決起し、敗れたのが70才頃とすると、実弟と伝わる実親は政実の子だったとも考えられる。

 歴史の想像は楽しい!





 


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