日本を守った武人

 昭和20815日、日本はポツダム宣言を受け入れ連合国に無条件降伏しました。しかし日本軍の戦いは、まだ終わってはいなかったのです。スターリンのソ連は、どさくさに紛れて北海道占領を目論んでいたのです。

  88日日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連軍は、即座に満州、樺太方面に侵攻しました。最終的には、朝鮮半島と北海道を占領し、共産化が目的でした。日ソ中立条約は、破棄後も一年間は有効とされていました。つまり昭和2187日までは有効だったのです。

ソ連は攻めてこないと思っていた日本軍は、不意を突かれる形となってしまったのです。815日を境に連合国軍が戦闘を中止しても、ソ連軍だけは日本軍への攻撃を続行します。猛進を続けるソ連軍に対し、関東軍を軸とする北方方面軍は終戦後も戦闘続行を余儀なくさました。

  75万人の関東軍は、山田乙三大将指揮の下に満州各地の要塞に篭って防衛を試みます。が、ソ連軍を食い止めることは不可能でした。日本軍はソ連軍に蹴散らされ、逃げ送れた民間人は、ソ連軍の暴行や略奪に遭い、次々と命を落としたり、シベリアへと連行されます。

  満州を攻略したスターリンの、次の目標は北海道侵攻でした。南樺太を占領したソ連軍は817日に千島列島侵攻を開始します。ソ連軍の兵力は約8300人。このソ連軍を防ぐために立ち上がったのが樋口季一郎中将が率いる第五方面軍でした。

  大東亜戦争が勃発すると、樋口中将は北海道を守る第五方面軍の司令官に就任しました。た。主戦場から遠く離れているため、アッツ島玉砕やキスカ撤退戦などのほかは、目立った戦闘はなく、第五方面軍は多数の戦力を残したまま終戦を迎えました。このことは日本にとってはとても幸運でした。

  815日の玉音放送はで第五方面軍も動揺します。敵の謀略であると考える将校もいたが、翌16日に大本営から発せられた戦闘停止命令で、終戦は事実であることを知ります。武装解除の準備を進めていた817日、千島列島の占守島守備隊から国籍不明軍による攻撃を知らせる通信が届きます。樋口すぐに、攻撃がソ連軍の仕業であることを知ります。る。ソ連の目的が北海道侵攻である事は明白でした。ここで反撃しなければ、北海道はソ連に蹂躙されると樋口中将は考えます。樋口中将は守備隊に対し、断固とした態度を持って命令文を打電した。「断乎、反転に転じ上陸軍を粉砕せよ」

 占守島を守備していたのは、約10940人の日本兵でした。樋口中将から反撃の許可を得た守備隊は、即座に反撃を開始します。18日午前1時、竹田浜に防衛線を張った連隊は、上陸部隊に集中砲火を浴びせて大打撃を与えました。しかし装備に劣る日本軍は徐々に押され、四嶺山の壕へと退避すしまし。劣勢となった日本軍を救ったのが戦車第十一連隊でした。午前5時、島南部より出撃した部隊は山を包囲していたソ連軍を背後から強襲します。戦車を用意していなかったソ連兵を次々と蹴散らします。四嶺山を死守した日本軍は、兵力を結集させて竹田浜奪還を目指して攻勢を強めます。対するソ連も態勢を整えて日本軍を迎え撃ち、戦局は降着状態になります。

  21日になっても戦闘は止まず、日本が武装解除したのは23日になってからでした。日本軍の最終的な死傷者は約1000人、ソ連軍は約1500人だそうです。日本軍は最後までソ連軍に対して優勢を保っていました。

 スターリンとすれば、ドサクサに紛れて北海道まで占拠してしまおうと思っていましたが、樋口中将の決断で北海道侵攻ができませんでした。

 ソ連軍の独断専行に憤りを覚えたアメリカは、ソ連に北海道侵攻を諦めるように忠告します。そして、ソ連が占守島攻略に手間取っている隙に、北海道への進駐を終わらせてしまったのです。結果的にソ連に侵攻されなくて幸運でした。

 それでもソ連は諦めず、進駐軍に北海道の譲渡と樋口の身柄引き渡しを要求したそうです。しかしアメリカはその両方を拒否します。ソ連の北海道占領計画は夢へと終わってしまった。

 もし樋口中将が戦闘を決断しなかったら、ソ連の北海道上陸が成功して、最低でも北海道はソ連のものとなっていたと思います。その危機を回避したのが樋口ら第五方面軍の奮戦でした。 

このことからわかる歴史の教訓は、軍事力という力がないと、国と自由を守れないということです。果たして、現在の日本国は国と自由を守り切れるのでしょうか。




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