朝鮮の「独立門」

 朝鮮の独立門を、多くの朝鮮人は昭和208月の、大東亜戦争で日本から独立したことを記念するものだと思っているようです。一部の日本人も、そのように思っていることは残念です。

 明治27年、西暦1894年、朝鮮の民間信仰団体である東学党の信者を中心として、朝鮮半島の各地で反乱を起こしました。これを東学党の乱とか、甲午農民戦争といいます。東学党は一種のカルト宗教でした。

  自力で反乱を鎮圧できない朝鮮は、清国に対して派兵を要請します。清国は直ちに出兵するとともに、先に日本と結んでいた天津条約の規定どおりに、出兵の事実を我が国に通知しました。

 通知文書を読んだ日本政府は、清に異議を唱えるとともに、朝鮮への派兵を決定しました。「朝鮮への出兵は属邦保護のため」と、清国からからの通知文書に書かれており、朝鮮を独立国と認めてきた我が国の外交姿勢と真っ向から対立するものだったからです。

 日清両国の出兵によって、東学党の乱は鎮圧できましたが、問題はその後でした。朝鮮における内政改革を、日清両国が共同して行おうという我が国からの提案を、清国が拒否したのです。

 もし我が国がここで撤兵すれば、朝鮮は清国の属国化を認めたことになります。朝鮮に独立国でいて欲しかった我が国は、清国の勢力を朝鮮から追い出すため、明治2781日、清国に対して宣戦布告し、ついに日清戦争が始まりました。

 清国は「朝鮮は我が大清国に属して200年になるが、毎年我が国に朝貢している」と主張しましたが、日本は「朝鮮は我が国が誘って列国に加わらせた独立国であるにもかかわらず、清は常に朝鮮を自分の属国として内政に干渉し続けている」と訴えたのです。

 つまり、朝鮮を自国の属領と考える清国と、独立を助けようとする日本との間で日清戦争が起きたわけです。大多数が清の勝利を予想しました。日本国民は「朝鮮の独立を助ける義戦である」と、国家をあげて朝鮮を応援したのです。

 戦争は豊島沖の海戦から始まり、その後は我が国の陸軍が平壌から鴨緑江を渡って満州へと入り、遼東半島を占領して、清の首都である北京へと迫りました。海軍も黄海海戦に勝って制海権を得ると、明治281895)年1月に陸軍が威海衛を占領したことで、清の北洋艦隊が降伏するなど、我が国が圧倒的優勢の展開となりました。

 明治28年(1895)年417日、下関において、日清戦争における講和条約が調印されました。これを下関条約といいます。もっとも重要なのは、「清が朝鮮を独立国として認める」ということでした。朝鮮はやがて明治30年(1897)年に、大韓帝国と国名を改め、国王の高宗が初代皇帝となりました。

 日清戦争により日本が清国に勝利し、下関条約にて清の冊封体制からの李氏朝鮮の独立を認めさせました。これにより李氏朝鮮は清の支配から解放され、自主独立国家として歩みだすことになったことで、清国への服属を象徴していた迎恩門を壊しました。その後に登場する独立協会が、迎恩門の跡地のすぐ隣に独立門を建てたのです。決して日本からの独立を記念したモノではありませんよ。

 



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