天台寺の仏罰論 令和2年8月23日

 今でも事あるごとに「杉伐採の仏罰論が語られることがある。霊木伐採から60年以上経っても地元では、伐採にかかわった人に何か不幸事があると、「御山の祟りだ」「仏様の罰に違いない」と言われる。伐採が行われた後に、どれほど多くの仏罰が語られたことだろう。

 天台寺縁起には、天台寺の掟が書かれている。檀家や住職の役割を規定したうえで「此の法に違背したる者は破産に至るべし」としている。

 今では「杉伐採事件」が多く語られるが、実は明治の廃仏毀釈事件の方が天台寺にとっては痛手であった。

 明治政府は、明治元年に神道と仏教の分離を布告した。神仏混交の弊害をとらえ、それぞれ別個に宗教活動をさせようとするものであったが、地方官吏は「仏法を廃し釈迦の教えを棄却する」と解釈してしまった。

 この廃仏毀釈で多くの寺が被害を受けたが、最も有名なのが奈良の興福寺であり、最大の被害は天台寺だといわれる。興福寺の五重塔は売りに出されたが、すぐに買い戻された。しかし天台寺は多くの仏像や堂宇が破壊されて、ほとんどが回復不可能になってしまった。

 明治維新の混乱期で天台寺の管轄が青森県であり、岩手県の管轄であればこれほどの破壊は無かったともいわれる。明治312月に青森県官吏は天台寺の実地調査に入った。

 当時の天台寺は20ヘクタールの寺領を持ち、末社27社が散在して威容を誇っていた。青森県官吏は天台寺量を本堂の周囲1ヘクタールと決めてしまった。そして月山堂を月山神社として3ヘクタールを与えたのであった。その他の末社はすべて廃止してしまった。

 この災難を地元の人々は命をかけて守った。仏像を焼こうとする青森県官吏の隙を見て、小さな仏像を福蔵寺に移して守った。大きな仏像は土中に埋めて守り、廃仏運動が収まってから掘り起こしたが、場所がわからない仏像も多かった。

 この時に寺領を官有林に編入され、明治維新になり南部藩という後ろ盾を失ったことから、天台寺の修理や維持費の捻出も困難になった。このことが戦後の霊木伐採事件の一因だとする研究者もいる。

 「信仰薄くして供物掃除を怠れば病魔に取りつかれ家断絶するものなり」と天台寺縁起には書かれている。天台寺の復興には、間違いなく人々の信仰心が大事なのである。




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