長慶天皇伝説 その2 令和2年7月4日)

 長慶天皇に関する資料が少なく、その事績については不明な点が多いようです。在位説と非在位説があり、皇統に加えられたのは大正15年(1926)のことです。当時の研究者武田佑吉と八代国治によって新資料が発見され、ようやく在位が確認されたのです。

 元弘3年(133310月、長慶天皇の父である後村上天皇(義良親王)は6歳で陸奥に下向してきたことから陸奥国との繋がりができます。幼い義良は北条氏の残党の討伐と東国武士の帰属を目的に北畠親房・顕家父子に奉じられて奥州多賀城へと向かいます。建武元年(1334年)5月多賀城において親王となりました。

 正平23年(1368)春、後村上天皇の子である長慶天皇は即位します。長慶天皇は二十歳の血気盛んな青年であり、足利勢力に徹底抗戦を堅持します。その頃の南朝勢力は、機内でやや勢力を盛り返したものの、文中2年(1373)には吉野に逃れます。その吉野が攻撃されるという情報が入ると、父親の縁の地である陸奥に逃れることとなり、皇族五名が三種神器を後村上天皇から譲り受け、弟である建立した長谷寺へ向かいます。正平23年(1368)の事でした。

 長谷寺には、この時から6年前の正平17年(1362)には長慶天皇の弟熙成親王は芳野を出立し、丹後から日本海経由で相馬村に到着しましその後、鹿角を経由し浄法寺に逃れ、南朝方の重鎮である南部守行を頼ったと言います。

 その時に最も援助してくれたのが八戸南部弥六郎で二千石を与えてくれたと言います。長谷寺を建立したのは明徳元年(1370)と言われ、そこで兄の長慶天皇を待ちます。長慶天皇は吉野から長谷寺まで一年近くをかけて到着します。

 長谷村の記によれば、長慶天皇の下向経路は紀伊半島から興津浜を通り、駿河から甲斐に入り、正平23年7月25日の甲斐を発ち武蔵、常陸を経由し、鹿島浦から船で久慈浦に到着し、大野、観音林を経由し長谷寺に着いたと記されているそうです。




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