赤糸威鎧(令和2年7月2日)

 明治天皇は北朝方の出自でありながら、南朝が正当だと認定しました。何とも不思議なことでしたが、南部氏は最後まで南朝方の有力武将とし貫き通します。特に根城南部氏(後の遠野南部氏)は、その功績により明治になってからその忠君を顕彰されました。

 そして、その南部氏ゆかりの土地には長慶天皇の伝説が残されています。長慶天皇の墓と言われているのが全国には200か所以上あるともいわれ、大正15年10月21日に詔勅で歴代天皇に加えられます。昭和19年になって京都の嵯峨慶寿院がご陵墓に定められました。

 馬淵川流域では、名久井岳の周辺や天台寺に長慶天皇に関する伝説が残されています。名久井岳麓の有未光塚(南部塚)は、明治13年6月に青森県庁の役人中島健三が調査をします。また、昭和6年から8年にかけて地元の村長が区内大臣に対して「長慶天皇御陵墓御調査方請願」を提出して調査をしました。

 この当時三戸町長だった松尾節三も長慶天皇御陵墓探しに熱心であったと、その子息である松尾官平参議院議員が当時の資料を保管していました。

 また、当時の調査で注目される資料も見つかったそうです。それは三戸郡向井村の山崎雪子が保管するものでした。長慶天皇の弟が先に名久井岳麓に下り、そこに行宮を作り、慶天皇を迎えます。この弟は後の後亀山天皇になられた方ですが、久井岳麓にやってくるまでの旅日記が書かれていたのです。

 それによると、長慶天皇が即位すると弟の皇子は18歳で明尊と名乗り、父の後村上天皇の密命を受けて陸奥に下ります。正平17年(13629月、従者8名を引き連れて僧侶に化けて吉野を出発し、堺から船で播磨室津へ到着します。そこから江の島浦、出雲の石岬、杵筑、伯耆光雲山、但馬飯野湯瀬、三国峠、由良浜浦、能登、越後大夫浦、津軽深浦を移動し、正平18年(13631024日に相馬村に着きました。そこで供の藤原時経が亡くなり、正平19年(136483日までそこに留まります。阿闍羅山に登り、汚れをはらい身を清め、城山、毛馬内、柴木平四角岳を超えて浄法寺に到着します。そこに数年過ごし、名久井岳麓の奥谷に移動し、そこに居を構え正平24年(1369)に長慶天皇を迎えたとのことです。

 この旅日記は、長慶天皇の遺言により弘和3年(1383)に山崎晴政に授けたといわれ、その子孫が山崎雪子でした。松尾町長のメモにも、そのあたりの事が詳しく書かれていたと言います。

 国宝に指定されている赤糸威鎧は長慶天皇がお召しになった鎧と伝えられ、元々は名久井岳の麓にあったものです。




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