居猿山総左衛門のこと (令和2年6月8日)

居猿山総左衛門のこと

 南部家の祖・光行公が陸奥の地に赴いた行路は、陸路説、日本海説、太平洋説があるようです。その中の太平洋説によれば、甲斐の国南部荘に勢力のあった南部光行公は、平泉攻略で戦功があり、その恩賞で陸奥糠部郡を下付されました。

 その新領地に赴こうとし、鎌倉の由比ガ浜を建久二年(119110月に出港しました。主従が70名余りで、6隻の船に分乗したと言われています。

 八戸浦に着いたのが1218日で、そのまま馬淵川を溯りました。現在の相内付近まで進んだところで日没となります。光行公は近くの観音堂に宿をとっていたところ、近くの豪族・居猿山惣左衛門がやってきた。

 居猿山惣左衛門は、「私の領地に見知らぬ人がやってきた。」と思って、光行公一行を一括しようとしてやってきたが、鎌倉武士の立派な風刺に戸惑います。

 そして、あり合わせの鮭の半身と濁り酒を献上しして歓待します。そのことを光行公は大いに喜び、居猿山惣左衛門を家臣に加えたのでした。

 この時の出来事は、明治の代まで恒例となって、毎年正月には蛇沼家では鮭の半身と濁り酒を献上し、上座客分の付き合いをします。蛇沼家は居猿山惣左衛門の子孫です。

 ある年、蛇沼家では「いまさら鮭の半身でもあるまい。」とすて一匹献上したところ、南部公は「昔の故事を忘れるとは何事か。半身に致せ。」と叱ったと言います。

 明治の廃藩置県により、藩主も東京に住むことになり、南部公の身を案じた蛇沼政恒も一家を挙げて東京に移住します。そこで旧藩主の導きで牧羊を学び、日本牧羊の先駆者となったのです。




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