会輔社と自由民権運動 (令和2年3月1日)

 明治6年、征韓論に破れて下野した旧参議によって、憂国を謳う公党が続々と組織され、板垣退助や片岡健吉などによって立志社が誕生し、国内各地にも民権啓蒙の政治結社が組織された。

 明治8年には自由民権思想と、反政府の風潮を背景として、各地の代表が大阪に参集しるなど活発な動きがみられた。
当時の岩手県下には、花巻の大壮社、水沢の立成社、遠野の開進社、大槌の求友社、山田の立誠社、久慈の有信社などの結社があった。中でも盛岡の求我社と福岡の会輔社は、活動が活発な結社であった。

 明治13年4月、全国の有志に大阪府下に集合し「国会開設」の請願をしたが、岩手県からは求我社と会輔社から出席した。
求我社からは鈴木舎定が有志50名を代表して出席し、会輔社からは岩舘迂太郎が有志100名を代表して出席した。
岩舘迂太郎の出発にあたって小保内定身は、「斃るるも起くるも事はただしさの外にな出てそ大丈夫のとも」の一首を贈って激励した。

 明治14年国会開設期成同盟会を自由党と改め、要綱が発表されたが、その中に皇室のことが一言も触れられていないので、書面をもって何度も問いただした。定身は立憲君主制を望んでいたのである。
自由党では人を派遣していろいろ弁明したが、定身は納得せず、ついに同志とともに自由党を脱退した。

 この年の9月、国会を明治23年に開設することが決まった。政局は日ごとに激しさを増し、国体の破壊を招くおそれを感じた定身は、従来の会輔社の組織を変更し、新たに社員を募集して体制を整え、他の政治結社に対抗した。
新しい会則には「国家ヲ泰山ノ安キニ置キ皇統ヲ無窮ニ保護スルヲ要ス」が加えられた。この一文により社員は一層団結するに至った。




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