明治天皇の行幸と牧羊事業 (令和2年2月29日)

「金あるものは金を、労力あるものは労力を」

 明治維新を迎えた二戸地域の農村は、旧態然とした農法であり、これといった進歩を見ることはなかった。五穀を作り、野菜を植え、蚕を飼い、布を織り、藁細工が主な産業であった。漆は国内でも有数の産物であったが、地域全体を見れば、従事する者の割合は少ないのである。

 わずかに生産される米は貴重品であり、そのほとんどを換金し生活用品の購入に充てるといった自給自足の生活であった。

 明治7年県令(現在の県知事)は農家に養蚕を奨励した。同じころ会輔社の小保内定身は、殖産興業の必要性を痛感し、会輔社の社員とともに研究を始めた。

 その結果、桑、茶、楮、陸稲、天蚕などを試みて実践していた。中でも社員の蛇沼正恒は、牧羊事業が将来有望であることを唱えた。明治の世になり、日本人の服装も洋風になると、毛糸の重要が増えると考えたものであった。

 社員は綿羊事業のために積み立てを始め、明治9年には目標額に達したのでシナ種緬羊25頭を東京で購入し、そのうちの15頭を引き連れ523日に東京を出発、陸路を約一か月かけて陸奥福岡まで連れてきたのであった。松平錦水を牧羊師に雇い入れ、会輔社の敷地内で飼育を始めたのは明治96月のことであった。

 明治天皇が東北地方を御巡幸になられたのは明治9年のことであった。一戸のお泊りになったのが79日で、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、大隈重信など総勢250寧ほどの大行列であった。行在所は一戸村の金子茂八郎宅であった。

 福岡の会輔社では、陛下の御通輦の際には浪打峠の御野立所に陳列して地方の特産品や、住民の衣服食物を展覧に供することに決した。

 79日夜に小保内定身は、一戸村の明治天皇一行を訪ね、御用係の近藤芳樹に会った。定身はかつて近藤芳樹から学んだ仲であった。その際に木戸孝允に面会できた。その場で翌朝、木戸が会輔社を訪ねることが決まった。

 710日、木戸孝允、近藤芳樹、岸田吟香が定身の自宅を訪問した。三名とも定身とは旧知の間柄であり、木戸は明治政府に不満を抱くものがあれば、これを聞いて正論あれば、時によっては新政府に起用するとの考えから、時々このような行動に出ることがあった。

 定身は長州藩士の小倉健作の書いた鶴園梅花序や、九戸古城懐古詩などを見せたところ、木戸は「生涯の友に逢うが如し」と言って喜んだ。壁に掛けてあった西郷隆盛の書を見つけて七言絶句を書いたとも言われる。その書は南部藩勤皇派の東次郎から譲られたものであった。

 木戸孝允が会輔社を訪ねた理由は緬羊事業に興味があったからだ。陛下に羊肉を献上しようというので、前日に定身と蛇沼正恒は羊を率いて一戸まで行き手続きをしたが、責任者は料理の道具を持たないのと手続きの不備を理由に献上できなかった。しかし木戸はこのことを喜び、緬羊飼育は先見の明があるとして定身宅を訪問したものであった。

 羊肉の献上はならなかったが、福岡の御休所で緬羊を展覧させることが急遽決まり、県知事に達せられた。県知事は突然のことに驚いて、さっそく定身宅を訪ね準備をしたところ、その場に木戸孝允の姿を見つけて平伏したといわれる。

 木戸を迎えた定身は、浄法寺椀に稗飯を盛り、ゴボウとニシンを身にした「コクソ煮」でもてなしたが、稗飯に冷水をかけて最後の一粒まで食べた木戸の態度に流石苦労人だと驚いた。

 710715分に一戸宿を御発輦、8時過ぎに浪打峠に御着、福岡宿の村井治兵衛邸には10時の到着であった。ここで定身の母喜恵の織った羊毛織物、会輔社で飼育していた緬羊一頭をご覧に入れた。

 この日の会輔社員は、松平錦水を先頭に緬羊を率いていて御休所で待機した。この日の陛下の機嫌は美しく緬羊をご覧になった。やがて緬羊事業の事業の責任者である松平錦水と蛇沼正恒に対して、「牧羊は国家的事業であるから益々盛大にせよ」というお言葉と、一金十円の御下賜金を賜った。

 明治14年に再度明治天皇の巡行があった。823日一戸からの御発輦だったが、浪打峠の御野立所、陳列所の整備、陳列品の収集などは会輔社員の手によってなされた。陳列品は郷土の化石類、農産物、麻服、稗飯、大麦濁酒などである。

 三葉松が描かれた御菓子を献上したところ、その松樹をご覧になりたいとの御内意が侍従より伝えられたので、末の松山から三枝を選び、小保内定身、下斗米簾八、国分閑吉、菅治平の四人が、三戸で御休息の陛下に献上した。この行動に対して天皇は会輔社にたいして金五十円を賜った。

 この時の大隈重信は、会輔社の事業に理解を示し産業振興のために金三万円を貸すことを申し出たが、定身はこれを辞退したといわれる。

 当初は会輔社の小保内定身宅で始められた緬羊事業は、後年は斗米上野を開墾し蛇沼牧場に移った。移住当初の上野蛇沼牧場は、狼が出没し被害が大きかった。緬羊の初生児はなかなか育たないので、自分の寝床に抱いて寝た。その苦労が実って最盛期には飼育数は300頭を超えたのであった。




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