軽米の商人侍 蛇口伴蔵 (令和2年1月18日)

江戸末期の八戸藩に庶民から「商人侍」と馬鹿にされながら、そのことを全く意に介さず、せっせと蓄財に精を出す武士がいました。

文化7年(1810)に父・葉山治右衛門と母。志加の子として生まれた葉山与八郎です。

文政10年(1827)、18歳の時に九戸郡蛇口村の蛇口家へ養子となり、名前を蛇口胤年、晩年は伴蔵と名乗りました。

 軽米代官の養子に入った蛇口伴蔵は、貧しくとも学で身を立てようと一念発起し、江戸勤番の時期に昌平黌の佐藤一斉に学びます。また藩の砲術指南の立花文助から儒教の基本となる易学を学びました。

 師の立花文助は、「倹約で富を成し、世に役立ててこその学問」と教え、その言葉通り蓄財に励み世に尽くすことを決意します。

彼は家屋敷を売った金を元手に土地転がしやご用聞を引き受けて蓄財した。天保の一揆では城下を埋めた数千の百姓相手に食べ物を売って儲けたともいわれます。

 なりふり構わぬ商売に皆が「守銭奴」と罵しられますが、20年間耐えながら現金3万両、水田30町歩という巨万の富を手にしました。

凡人なら何代も遊んで暮らせる金額だが、48歳で隠居した伴蔵は、母袋子(八戸市)、相内(青森県南部町)、下洗(八戸市南郷区)、階上岳(青森県階上町)、小軽米(岩手県軽米町)などの上水を企画します。

さらに安政4年(1857年)、上水事業に着手し、八戸市大杉平及び糠塚と階上岳蒼前平の開田を果たしたが失敗に終わりました。

 全財産を使い果たした伴蔵は、失意のうちの慶応2年(1866)9月8日没しました。学問と師の教え貫き通した生涯でした。

凡人なら、遊んで暮らせるほどの材を貯えなが、世間の誹謗と中傷を受けたが、夫婦は柳に風であり、農地ができて領民の生活が豊かになることを望んでいたと伝わっています。




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