爾薩体邑良志閉(おらしべ)村  (令和元年11月24日)

 『日本後紀』弘仁2(811)年七月の出羽からの報告によれば、「邑良志閉(おらしべ)村の俘囚吉弥侯部都留岐(きみこべのつるぎ)がいうには『自分は爾薩体(にさたい)の村夷伊加古(いかこ)らと長い仇敵関係にある。現在その伊加古らは兵を訓練し、軍勢を整えて都母(つも)村に居り、閉伊の村夷を勧誘し、われわれを討とうとしていると願い出た。できるならば兵粮を賜って、官軍の先頭を切って伊加古らを襲撃したい』とのことである。

現地を国司の我らが推し量るに、賊をもって賊を討つのは軍を動かすのは国家の利益である。米百石を与えて、その情を奨励したい」と考えた。 

 当時の嵯峨天皇は、文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)を征夷大将軍に就任させ、出羽の俘囚らを含む二万六千人の朝廷軍を派遣し、「国家の災厄は東方にあり」と檄を飛ばし、「夷をもって夷を征する」方策によって、閉伊のエミシに爾薩体の伊加古らの種族を攻撃させようとした。 

 だが、エミシたちの頑強な抵抗にあって、はかばかしい進展はなく、六十人を殺害しただけに終わった。朝廷軍は二万も動員されたにもかかわらず、実際の戦闘には役に立たず、陸奥と出羽で組織された俘囚軍が戦闘に動員されていたのである。 

 この時の「邑良志閉(おらしべ)村」を二戸市浄法寺町の長流部(オサルベ)とする説もあり、天台寺の成り立ちを調べるうえで重要だと考えられている。 

 古代は日本海側が、大陸に面していることから文化がいち早く伝わった。仏教文化も日本海側を通り、米代川を遡り二戸浄法寺にいち早く渡ったとも考えられる。そして日本国との境である二戸郡(七時雨〜奥中山)に天台仏教の拠点を築いたのかもしれない。その文化を安倍一族が保護し、最終的には平泉の藤原氏が引き継いだのである。





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