陸奥の名族 浄法寺氏の謎


浄法寺氏の通説

奥南旧指録によれば、浄法寺氏の本姓は平姓畠山氏である。元久2年(1205年)6月、畠山重忠とその子重保・重秀等は事に座して誅されたが、三男・重慶は難を逃れて、鎌倉浄法寺にて出家したのち奥州に下り還俗して、二戸郡安比川川谷の中心部(岩手県二戸市)に住み着いたのが始まりと伝える。

戦国期に安比川流域で屈指の大豪族となり、松岡、太田、駒ケ嶺、大森氏などの諸氏がこの一族とつたわる。

二戸地域で九戸城に匹敵する規模を誇るのが「浄法寺城」です。安比川左岸、南東方向に張り出した丘陵上(比高40−50m)に位置する平山城で、新城館・西館・大館・八幡館の4郭からなる多館式の城館です

天正20(1592)年、秀吉の一国一城令により浄法寺城は破却されますが、浄法寺修理は南部氏から5000石を宛がわれ、外様領主として南部氏の家臣団に組み込まれます。

慶長2(1597)年には盛岡城築城の普請五奉行に任ぜられて、盛岡城の築城に貢献します。います。

慶長5(1600)年、南部家の和賀地方統治に反対する「和賀の乱」が勃発し、重安の子重好は鎮圧のため和賀の岩崎城へ出陣します。

南部利直は陣を引き払い三戸へ戻ります。この際、浄法寺重好に和賀に残るように命じました。

しかし、和賀を任された重好は部下を残したまま無断で浄法寺に帰ってしまい、翌春に和賀に戻ります。 慶長8(1603)年、乱の終結後に重好の行動が戦陣の規律を破ったとされ、浄法寺氏は改易処分となったと伝わっています。

浄法寺氏は分家(本家とも)の松岡氏に預けられ、現在まで血筋は続いているという説もある。

南部領内でも有数の大身者・浄法寺氏の改易は大事件なはずですが、その後の記録はほとんど残されていません。








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