漆の生産地について
正倉院文書には、奈良時代の漆の産地として陸奥、上野があり、また出雲では島根、秋鹿、楯縫、神門の四郡が産地であることが出雲風土記に記されている。
平安期の延喜式には、上総、上野、越前、能登、越中、越後、丹波、丹後、但馬、因幡、備中、備後、筑前、筑後、豊後の十五カ国が挙げられている。 寛永年間の「毛吹草」によれば、大和、上野、下野、周防、陸奥、出羽、越後、備中の八カ国が自国の特産品としている。 また、宝永五年の大和本草目録、正徳三年の和漢三才図会、享保十二年の諸国名物往来などでも、全国各地で相当量の漆が産出されていることが判る。 その後の文献では、明治四十年に刊行された「実験応用通俗産業叢書」には、江戸時代末期の産地と思われる地域が掲げられている。 以上のように漆の産地が掲げられているが、その他の地方でも各地で生産が行われた。藩政時代からの保護政策の遺産とも言える。 明治五年の「うるしのこしらへ」によると、越前、大和吉野、岩代会津、羽前米沢、最上、山形、陸中南部、陸奥福岡などが名産地で、特に越前は古来より漆採取の生業にくわしく、近年まで各地で掻き手は越前から招いたと書かれている。 明治十六年に刊行された「大阪商業習慣録」によれば、「漆の産地は三奥を最上最多とし、越後が之に亜ぎ、越前又之に続く。且つ関東にては野州、常州を最多とせり。元来、今を距たる百年以前は越前の産は殊に多く、今も越前の人諸州の山々に入り、之を製造して四方に販売するもの多し」と書かれている。三奥とは奥羽、出羽のことである。 漆の産地分布をみると、平安時代頃は関西、九州地方に多かったが、次第に北上して、十七世紀ころから関東、東北地方に拡がり、明治以降は東北地方、北陸地方に主産地が移行した。大正時代の主産地といえば、青森、岩手、山形、栃木、茨城、新潟、石川などとなる. |