平成12年10月号 目の眼  

 平成12年に発行された雑誌「目の眼」に秀衡椀の記事が掲載されました。知っている方の名前も出ていたので印象に残っていました。その記事を掲載して浄法寺・秀衡の参考にしたいと思います。

 秀衡椀という名のおこりは「蘭学階梯子」の著者大槻磐水が書いた「秀衡椀記」(寛政4年が」最初である。
 しかしこの名が広まったのは明治・大正時代の益田鈍翁、畠山一清などの数奇者がこの椀に目を止め茶会席に使うようになってからといわれている。また民芸運動の創始者柳宗悦も早くから秀衡椀ならず浄法寺の古漆器の持つ美しさに目を止めて集められ、日本民芸協会の機関誌「工藝」「民藝」で特集号を出し、日本民芸館で特別展を開くなどしてきた。それによって名が更に知れ渡り、関心を持つ人が増えてきたのである。

 昭和五十六年、中尊寺坂下で秀衡塗を生業としている翁知屋の主人佐々木誠氏から「中尊寺で藤原秀衡公850年祭が行われる。その中で6月1日から一ヶ月間中尊寺で秀衡椀展が開かれるが手伝ってくれないか」と言う話があり、会の始まる前に佐々木氏と中尊寺の人と三人で秀衡椀の借り出しに歩いた。
 昔、北上川の舟の関所をしていた旧家では、楓紋の秀衡椀から時代順に十組揃って絵柄の違ったものを三組持ち伝えているには驚いた。こうして秀衡椀を持っている家を殆ど歩いたが、すべての家が当代で37代といった旧家であるところから、秀衡椀は或る程度身分の高い上客の接待用として特別に注文されたものではないかと思った。また、この椀は蓋無しで三つ重ね、時代が下がると四つ重ねが出てくるが、何れも十組が一単位で絵柄が総て違う。従って例えばよく知られている柏紋の椀が一組は日本民芸館、もう一つは秀衡椀の研究家、一関市の菅原精蔵が持ち、後の八組は代々持ち伝えてきた岩手県花泉の旧家にあるのを私は「見ている。

 また、日本民芸館蔵の桃の絵柄の秀衡椀一組は前からあったが、後の一組は柳宋悦がアメリカで入手したものである。この手の椀は菅原が秀衡椀をよく知らない頃十客持ち込まれたが、そんなにあっても思って五客だく買ったという。つまり日本民芸館の桃絵の椀は五組の中の二組で、あとの三組が何処にあるか解らない。読者の中でもし、一組でも図5の桃絵の秀衡をお持ちの方がいれば、その三組の中の一組である。

 秀衡椀はこれだけ有名なのに関連した資料が少ないため産地が解らないが、椀の分布している範囲が、西磐井、東磐井、胆沢の三郡であり、作られたのはこの近辺であり、室町末期から桃山時代ころと言われている。

株式会社里文出版


(秀衡椀と伝わる椀)
 桃の絵柄の秀衡椀は後日掲載します

 


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