浄法寺氏は天台寺の庇護者

長慶天皇陵は全国各地にあるとされています。。長慶天皇は後村上天皇の第一皇子で南朝の第三代天皇ですが、長らくその即位が疑問視されてきた幻の天皇でした。長慶天皇の在位・非在位をめぐっては江戸時代以来議論がありましたが、大正時代に八代国治・武田祐吉による実証学的研究が決定的な在位説として評価され、長慶天皇の即位は動かない事実とされ、大正15年10月21日に詔書によって長慶天皇は 

当時、天台寺や法光寺などへも調査が入ったらしく、資料も持ち帰ったとのことですが、その後はその資料等に調査結果は発表されていません。 

 南北朝合一後も北朝打倒のために全国を行脚したともいわれ、天皇に関する伝説・伝承が各地に残されており、長慶天皇の陵墓とされるものは全国に100ヶ所以上あると言われています。

天台寺の毘沙門堂の後方約50mほどの所には長慶天皇の御陵といわれる場所があり、天台寺伝わる伝承によると、長慶天皇は武家方の追求を逃れて伊勢から船出して陸奥に渡り塩釜に滞在し、その後は南部氏を頼って宮古にわたります。

南部家では天台寺住職の導尊を侍従とし、導尊は天皇に付き添い、八戸、名久井、泉山などに滞在しました。

その後、天皇が体調を崩したため長谷寺で療養したあとに、二戸市の福田に入り、山田に仮の御所を置いたが、病によりついに崩御したといいます。導尊は天皇の遺体を棺におさめて錦をかけ、夜中にこっそり天台寺に運び、毘沙門堂の背後にある丘上に土を深く掘り、棺を埋めて、その上に木炭を敷き詰め、目印に杉の木を植えたのだと伝わっています。

 大正期の調査では、天皇におかけになったと伝わる錦があり、宮内省の職員調査のために預かって行ったともいわれます。

 この天台寺伝説を証明するかのように、大正期の調査では、名久井岳周辺や天台寺周辺から提供された資料で、貨物列車いっぱいになったと記録に残されています。

 さてこの天台寺は、元々は土着の清水信仰の場所であったものを、安倍貞任につながる一族が信仰の仏教と結び付けて整備、天台仏教の陸奥での拠点としたものと考えています。平安末期までには奥中山以南までは大和朝廷の勢力圏でした。それ以北は未だに安倍の勢力圏であり、大和国と安倍の本領の境が二戸郡で、そこに開かれた天台寺は特別な意味を持つ場所だったかもしれません。

 源頼朝に平泉が滅ぼされ、安倍藤原の本領たる二戸郡には、上野国緑野の浄法寺にかかわりのある畠山一族がやってきます。そして安倍本領の精神的な寺を保護して復興したと考えられます。当然寺名は浄法寺だったはずです。

 鎌倉末期に南北朝が分裂し、北朝の勢力が陸奥二戸地方にも迫ってきます。畠山浄法寺氏は南部氏の助けを求めたはずです。そして正平8年に天台寺と名乗り、比叡山の名を借りて足利勢力に対抗したのかもしれません。


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