陸奥の名族浄法寺氏

 陸奥の名族浄法寺氏は、桓武平氏秩父権守重綱から出た畠山氏の分流と通説では伝わっています。秩父重能は畠山庄司になり、畠山に移り住み畠山氏を称しました。重能の子が畠山重忠で、源頼朝の信頼が厚く、鎌倉武士の典型と仰がれました。北条時政の娘を娶り、頼朝とは相兄弟の仲でした。 

 元久二年(1205)、重忠の嫡子六郎重保が北条時政の後妻牧の方の娘婿平賀朝雅と争って時政に殺害され、重忠は武蔵二股川で幕府軍と戦って討ち死しました。これは時政が画策していた朝雅将軍擁立計画を打倒するために、北条義時がたてた策に畠山氏が利用された結果とされています。

 この時、武蔵国慈院二十九世別であった三男の畠山小次郎重慶は、陸奥浄法寺に逃れ、還俗して重慶と名乗り浄法寺氏の祖になったと伝わります。

 戦国期の居城である陸奥浄法寺城は、東西約400メートル、南北700メートルの広大なもので、当時の北奥では三戸・九戸・八戸と並ぶ南部勢力の有力者でした。南部氏からも客将として扱われ、特別な地位であったようです。
 城は大身者であったことをうかがわせる規模です。特に糠部から鹿角に通じる要衝を押さえていたことから「鹿角の大将」とよばれることもありました。
 天正末年に秋田氏と南部勢力が比内をめぐって戦ったとき、南部方の武将として「九平九郎(九戸政実か?)外一類」の「浄法寺修理介」の名が見え、これが当時の当主修理介重安かと思われます。三戸南部晴政・信直の時代に活躍した修理もこの人物かと思われます。

 重安の嫡男重好は慶長五年(1598)、最上出陣や和賀兵乱には120人を従えて出動しており、南部にあっては五奉行の一人として盛岡城の築城にも活躍しています。
 慶長年間(1600〜)の和賀兵乱の際、南部利直は一時休戦にして、和賀に浄法寺重好を置き三戸に帰ったが、重好はひそかに浄法寺に帰って戦陣の規律を破ったため、慶長八年(1603)知行家禄屋敷を没収され、その身は蟄居となり、分流松岡家に預けられ浄法寺氏は断絶したと伝わります。


天台寺参道


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