陣場台熱球録 web版 その103

  福高野球部の珍しい業績として挙げられるのが、夏に10回以上出場しながら春の出場が一度も無いという珍記録です。昭和3年と昭和4年春には選抜されましたが、諸般の事情から辞退しています。

 昭和3年は突然の選抜だったので、練習不足と費用の関係から辞退したと伝わっています。昭和4年は中心選手の村田栄三、鈴木銀之助などが卒業す、エースであった戸来誠も4年修了で明治大学に進んだこともあえい、「新しいチームでは勝てない」と後援会が考えての辞退であった。

 その後援会を見返そうと選手が発奮し、昭和4年の夏も東北予選を突破し甲子園出場を果たした。昭和5年は準優勝に終わったが昭和6年も4回目の出場を果たし、東北の王者と言われた。

 さて、春の選抜大会の一度も出場が無く夏に10回以上の出場があるのは、実はもい一校あったのである。それは満洲にあった大連商業である。大連商業は甲子園でも準優勝を果たすなど強豪校と知られていた学校である。

 しかし満洲予選となると、ほとんどが三校での争いであった。予選無しで出場したこともあった。大連商業は強豪校なのは間違いない事実であるが、やはり予選での試合数が少ないということは、本選出場に有利なことは間違いない。昭和10年代には、満洲の実業団で活躍した鈴木銀之助も、大連商業や奉天商業を指導したといわれる。

 戦前は学校数が少ないので甲子園に出場しやすかったと考える人もいる。しかし戦前でも甲子園の本選に出場するためには4勝から5勝を必要とした。理論的には100校の中で優勝するのと200校中で優勝するための試合数は1試合増えるだけなのである。


(昭和6年 宿舎での福中選手 )


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