陣場台熱球録 web版 その86

1年生ながら盛岡一高戦に先発 柳畑雅人

 昭和59年(1984)春の選抜大会では、大船渡高校がベスト4に入る快挙を成し遂げた。この大船等高校エースの金野投手と中学校時代からライバル関係にあったのが柳畑雅人であった。  

昭和57年(1982)夏の岩手県大会初戦で、本校野球部の長沢監督は意外な投手を先発させた。小鳥谷中学出身で4月に入学したばかりの一年生柳畑雅人投手であった。

この年の初戦は盛岡一高との対戦と決まった。戦前からライバル校であり、甲子園出場がともに9回、昭和53年に盛岡一高が9回目の甲子園出場を果たすと、昭和55年には本校も9回目の出場を果たすなど当時は岩手県の高校球界をリードしていた。

「先に10回目の出場を果たすのは俺たちだ」

「他の学校には負けても、あの学校にだけは負けるな」

戦う前から両校関係者の情報合戦は最高潮に達した。

この異様な雰囲気の中で先発した一年生投手は、堂々とした投球を見せて試合を組み立てた。怪我で出遅れた三年生エース立花義弘につなぎ、延長12回サヨナラ勝ちの原動力となった。

二年生となった昭和58年(1983)には投球術に磨きがかかり、甲子園出場が期待されたが準々決勝の雨中戦で好投手細越のいる黒沢尻工業に敗れてベスト8止まりであった。

最後の大会となった昭和59年(1984)の夏は、中学校時代からのライバル大船渡高校の金野投手を倒しての甲子園を目標に調整した。二回戦の大迫高校戦では息詰まる投手戦を制して1−0で勝利、この試合でノーヒットノーランを達成するなど好調を維持した。

満を持して臨んだ準決勝は大船渡高校が相手だった。選抜ベスト4の大船渡を倒すべく奮闘したが0−7で敗れた。

福高卒業後は、社会人野球の電電東北に進み活躍した。一時期はドラフト候補としてスポーツ新聞にも掲載された。

戦前から野球を見続けてきた野球通の間では、福岡史上最高の投手と評価する人もあった。プロ野球で活躍した欠端投手よりも、低めのボールに威力があり打ちにくいと言われた。

福中・福高野球部が、大正13年(1924)に甲子園予選に初めて出場して以来、公式戦の中で、ノーヒットノーランを達成した最初の投手であった。


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