陣場台熱球録 web版 その85

大正7年の一関遠征 

 福中野球部は大正7年の秋に一関遠征を企てた。この年の一関中学は、東北大会を制して甲子園出場を決めながら「米騒動」により大会そのものが中止されたが、東北地方最強のチームであった。

 一関中学に遠征した福中メンバーは、投手村田幸雄(改姓し西島)、捕手佐藤貞太郎、一塁手玉川義雄、二塁手田高資郎、三塁手工藤愛雄、遊撃手下斗米尚次、左翼手阿部武志、中堅手下舘惣七、右翼手中野虎郎、補欠として奥健三、本宮明、柏田敏雄、大沢重郎だった。

 一関中学との試合では、村田と佐藤のバッテリーは強打の関中打線を5安打2点に押さえ、下斗米、中野の連続長短打などで3点を奪い関中に勝利した。

 この日の夜は一関町内の石橋ホテルに宿を取った。関中側の好意により関中の教室で懇親会が催された。

 「我々が得意げに教室にはいると、関中の選手は涙に暮れていた。思えば夏に全国大会に出場しながら大会が中止になり無念だったろうと後で思った。会も進みお互いの校歌を歌い会う場面になって両校ともビックリした。なんと同じ曲だったのである。それからは懇親会が大いに盛り上がった」と、福中のエースだった村田幸雄は回想している。

 この試合の一関中学のメンバーは、投手村井、捕手伊藤、一塁手佐藤(仁)、二塁手千田、三塁手鈴森、遊撃手佐藤(協)、左翼手小泉、中堅手建部、右翼手鵜浦と記録されている。

 福中の村田・佐藤のバッテリーは、前年の夏に偉大なる名選手から指導を受けている。第一高等学校野球部の名バッテリー内村祐之投手と中松潤之助捕手から指導を受けた。この指導により村田と佐藤のバッテリーはメキメキ頭角を現し、八戸中学、青森中学などとの試合で勝利した。

 大正7年には一高は早稲田や慶応を破り日本野球の頂点に返り咲いた。

 一関戦の勝利は意外な副産物を生んだ。福岡に凱旋するために、部長の亀田教諭は校長に電話し駅頭で出迎えてくれるように依頼した。校長も喜びその案に同意し午後3時過ぎに生徒も福岡駅に集合させた。

 その時に「校歌」の指揮を任されたのが4年生の内藤正介(大正9年卒剣道選手)であった。

「駅に集合するとなぜか5年生の姿がほとんどなかった。たしか、試験か何かがあって5年生は遅れてきた。野球部がプラットホームに到着すると校長が内藤君が音頭を取れと言う。先輩方が時々やっていた高等学校式のアイン・ツバイ・トライをやった」 (昭和54年頃に聞き取り)

これ以降、野球部が試合に遠征する毎に有志の猛者が指揮を執り檄を飛ばすようになった。数年後に結成される「福中応援団」のきっかけとなった。野球部員の奥健三や光藤学などが作詞をして多くの応援歌を作ったのもこの時期である。

福中卒業後も、OBチーム「形水クラブ」のエースとして実業団大会優勝の立役者となった。


後列左から宮野六郎、村田幸雄、小向八郎



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