陣場台熱球録 web版 その82

甲子園予選出場に導いた恩人 小向八郎

 大正12年春、仙台高工に進学し野球部主将として活躍していた小向八郎が帰省してきた。目的は、福中野球部後援会の有力者を説得して甲子園予選に出場させることだった。

小向八郎は、明治33年4月に福岡で誕生した。兄の三郎や六郎とともに野球選手として知られ、小向三兄弟と呼ばれた。特に、八郎は足も速く陸上選手としても活躍した。

大正8年3月に福中を卒業後は仙台高工に進学した。仙台高工でもその才能は高く評価され、二年生にして主将を任され、仙台市民を沸かせた第二高等学校との定期戦に勝利しようと苦心していた。

第二高等学校主催の全国中等学校野球選手権東北予選には審判として駆り出され、中等学校野球の熱戦に間近に接した。「福中は何のために野球の練習をしているのだろうか。八戸との定期戦に備えてだけだとしたら意味がない。全国大会の優勝を目指して戦うべきだ」と感じた。

帰省した小向は、まず福中野球部後援会の実力者である国分喜一に相談した。小向の熱意を感じた国分は、千浦家光、十文字長吉、古館末太郎などの後援者を集めて東北予選出場を伝えた。すぐに学校当局の了解を得て、大会本部に申し込んだが締め切りが過ぎていたために出場を果たせなかった。

しかしこの年の夏、仙台高工野球部の夏合宿を兼ねて福中にやってきた。高工野球部は裁判所通の沢藤倉治宅に宿をとり福中選手と練習に励んだ。

また、8月21日に行われた八戸沢田呉服店主催の「五郡連合実業野球大会」に辻村勘治主将他の福中選手を引き連れて参加し見事優勝を飾った。

秋になっても、週末には指導のために帰省し、帰省できないときはコーチを差し向け福中選手の指導に当たった。野球知識の必要生も感じたようで、米国の野球理論を翻訳し「野球セオリー」として福中選手に授けた。福中選手も秋から春にかけて「野球セオリー」の習得に努めた。

自分自身が主将を務める仙台高工野球部は、秋の第二高等学校との定期戦でも勝利し、この時期は選手としても指導者としても充実した時期であった。

福中野球部は、小向の尽力により大正13年8月には甲子園予選に初めて出場することとなった。この時期予選出場を果たさなければ、昭和初期の黄金期も日本野球史上初めての敬遠満塁策も無かったはずである。

小向八郎を語るときに忘れてならないのが、陸上選手としての才能である。大正14年にマニラで行われた極東オリンピック(現在のアジア大会)に日本代表として出場し、100メートルで4位に入賞している。戦前の200メートルの学生記録も持っていた。

仙台高工卒業後は仙台鉄道に入社した。仙台鉄道で野球を続ける傍ら、帰省しては「日ノ出クラブ」の選手として各地の実業団体会に出場し好成績を収めた。

昭和2年には盛岡鉄道に移り、盛岡鉄道の野球選手として出場するようになった。昭和2年には日ノ出クラブと岩手日報社主催の実業団大会決勝戦で対戦し3−9で破れている。

盛岡鉄道には昭和8年頃まで在籍し、その後も鉄道関係の仕事を続け新潟などでも野球を続けたようだ。

昭和17年惜しまれながら若くして世を去った。福中野球部の歴史を語る上で忘れられない名選手である。

 


昭和7年盛鉄選手として仙台管内工場・職場対抗大会に優勝。
後列右から3人目が小向八郎



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