陣場台熱球録 web版 その78

証言 昭和15年・一条善次郎

 昭和15年(1940)は、前年の大物選手である白坂長栄、小田野彰、戸来忠などの諸先輩が卒業したのでそれほど期待されていなかった。最上級生は、小林主将と小野寺外野手の二名だけだった。

夏の大会初戦は宮古水産を15−1で破って幸先の良いスタート切った。

続く準々決勝は花巻中学との対戦だった。雨模様のなかで試合が始まり、何となくしっくりこない中で1点を先取された。劣勢であったが途中で雨脚が強くなり無効試合となり再試合と決定した。   

もしも、この時に5回終了で試合が成立していれば5回目の甲子園出場はなかったのである。再試合は、前日と変わり打線が好調で10−3で危なげなく花巻中学を退けた。

準決勝では事実上の決勝戦といわれた盛岡商業対戦であった。この試合は2−0で会心の勝利を収めた。

決勝戦の一関中学は7−4で破り奥羽大会に進出を決めた。

秋田で行われた奥羽大会は危なげなく勝ち進み、昭和6年以来の甲子園出場を成し遂げたのであった。

エースの田頭投手は、練習ではそれほどの投球は見せなかったが、試合になると度胸満点で一試合ごとに調子を上げて相手打線を手玉にとった。見事な投球であった。

甲子園に出場した我々は、「全国一若いチーム」といわれた。最上級生が二名だけであった。甲子園では独特な雰囲気に守備が乱れて、初戦で敗れてしまった。

当時の想い出は、とにかく厳しい練習であった。明治大学からやってきた清水秀夫さんは特に厳しかった。白坂さんの時代は阿部澄志さんを中心に猛練習をした。間違いなく全国大会に行けるものと信じていた。

私たちの時は小保内巌さんが教えてくれた。小保内コーチは甲子園から帰ってきた後に応召されて戦死した。

難しい時代ではあるが、平成の後輩たちもぜひ甲子園の土を踏んで欲しいと思う。

(平成17年8月 福陵野球部100周年記念写真展会場で聴取)

 



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