陣場台熱球録 web版 その77

証言 19年ぶりの甲子園
「火の玉千本ノックは私の財産」 欠端光則

 僕の野球人生を語る上で、高校時代は欠かすことのできないものだ。市立福岡中学に在籍していた頃から、福岡高校の野球部が憧れだった。県内でも甲子園をねらえる強いチームというのもそうだが、なにより斉藤諒監督の指導がすごく評判で、福岡高校に行けば間違いないという声が多かった。

運が良かったかもしれないが、僕は一年生から遊撃手兼投手としてレギュラーに抜擢された。しかし、投手でありながら野手というポジションから練習メニューは両方やらなければならないため激しい練習が毎日待っていた。

その中でも思い出として強く残っているのが、年2〜3回あった合宿での、かの有名な「千本ノック」であった。一人ずつ一時間半から二時間の個人ノックを受けた。泥まみれになって白球を追いかけ、動かなくなるまで「火の玉ノック」は続いた。動けなくなるとようやくノックは終わり、斎藤監督は言葉少なげに去っていったのが印象的だった。

当時は嫌でしょうがない練習だったが、基本を徹底的に鍛えられたことが後に僕の財産になった。プロ野球に入団して周りを見渡せば、僕は他の選手より基本がきっちりとできていたのだ。厳しい練習に今では感謝している。

取り返せない失敗もあった。忘れもしない昭和55年八月九日、甲子園大会二日目第一試合の大分商業戦。念願の甲子園出場は果たしたが「オレが投げれば勝てる」といううぬぼれが原因で本調子がでないままに初戦敗退を喫した。前年の夏、岩手県大会の決勝戦で教訓を得たはずだ。練習試合では22−0で勝利した久慈高校相手に、決勝戦では1−3でまさかの敗退。悔しい思いをしながら、どんな相手でも気を引き締めて臨むことが必要だと学んだはずだった。それでも甲子園で同じ過ちを繰り返した自分が情けない。

入学前から、岩手県大会の決勝で敗れて甲子園への切符を逃していた斎藤監督。その監督を甲子園に連れて行くのが僕らの目標だった。

それだけに、昭和55年の夏19年ぶりに甲子園切符を手にして福岡の街をパレードしたときは感慨深いものがあった。

北福岡駅から国道4号線(旧国道)を金田一温泉までみんなでパレードをしたのだが、斎藤監督の嬉しそうな表情と、19年間の鬱憤を晴らすかのように熱狂する地元の人を見て、すごく胸が熱くなったのを今でも覚えている。

福岡高校の野球部で、野球の基本と一つのプレイの大切さを学び、チームメイトから支えられたからこそ僕はプロ野球に入団し投げることができたと思う。福岡高校は、まさに僕の原点となる場所だった。 




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