陣場台熱球録 web版 その76

福高野球部の復興と想い出言  堀田収一 

昭和22年、この大会から再び甲子園での開催となった。晴耕雨読ではないが雨の日は階段教室で、野球球のセオリーと実践さながらの戦略・戦術を織り交ぜた体験談をコーチや先輩から伝授された。また、一面において誇れる福中野球部の歴史を聞きながら、心技体を他校に負けない鍛錬を続け、猛練習をすれば相手に負ける道理はないという暗示に全員が傾聴した。

私の心の中で、暗示からより一層現実のものにしたい思いから、当時としては突拍子もない構想がわいた。野球部長の寺田先生に春休みを利用して暖かい東京で合宿をしたいと申し込んだところ、即座に「とんでもない。こんな世相で戦災の東京では、宿も練習場も無理だ」と一蹴された。

実は密かに、宿は親類に、練習は高木先輩(芝浦工専野球部主将)に手配し内諾を得ていたので実行に移した。自費参加で米を持参だから、有志参加者は高木投手、石井内野手、菅捕手、横舘外野手、そしてマネージャーの私が参加した。高木先輩の好意により、練習は芝浦工専の選手と一緒になり直接指導を受けてたいへん参考になり、自信をもてたことは大きな収穫であった。

夏の大会前には東京から大先輩の鈴木コーチが来校され、壮絶な猛ノック、グランドの端から端まで響き渡る鬼より怖い叱咤激励を耳にしながら、息絶え絶えになるまで心身共に鍛えられた。

この年の夏の大会は大雨続きに悩まされ、開会式から閉会式まで14日間を要した。

試合は大先輩の村田監督の采配のもとに、日頃の練習の成果、春の合宿の効果が相まって試合毎に自信が深まり、負ける気がしなくのびのびプレイができた。順調に試合も運び、決勝戦は花巻中学に3−0で勝ち、県大会の栄冠を握り奥羽大会出場権を得た。

雨のために予定が大幅に遅れたため、食糧不足に苦戦を強いられ困り果てていたときに、「心配するな元気でがんばれ」と励まされ、大会期間中毎日旅館まで貴重な白米をリュックサックにいっぱい詰めて差し入れてくださったのは、当時見前村の豪農家の藤川文治先輩(柔道部主将)であった。命の恩人として言葉では一口に表現できない感謝の気持ちを、素十年経た今でも忘れることができない。

奥羽大会は秋田県の八橋球場で開催された。この大会は鈴木銀之助監督が指揮を執られた。監督は上背があり頑健で、非常に個性の豊かな信念と、明るいセンスが選手を引きつけるカリスマ性富んだ方である。

第一試合の対戦相手湯沢中学の赤根谷飛雄太郎監督については、宿舎のミーティングで鈴木監督から、「彼は秋田商業から法政大に進み主戦投手、後にプロの東急で大活躍した左腕投手で手強いぞ」と聞かされ、県大会とは違って気合いが入った。

鈴木監督からいきなり、湯沢中学の宿舎に出向いて「明日の試合は福中が勝たせて頂きます」と、お前が挨拶に行けといわれて一瞬たじろぎましたが監督の命令とあればあきらめの境地、何とか湯沢中学の宿舎に出向き、ほうほうの体で宿に帰った。選手の指揮を鼓舞するための戦術だと気づいたのは大分後になってからである。

試合結果は、監督の暗示が聞いたのか高木投手の好投と福中打線が奮い9−0で湯沢中学を退けた。

決勝戦は青森中学との対戦となった。過去においての青森中学との対戦は二戦二敗であったが、岩手大会と昨日の湯沢中学に快勝し連勝中なので試合に負けることはないと信じた。自信とは恐ろしいものだ。うぬぼれと自信は紙一重だ。

福中の先攻で午前9時に試合が始まった。初回二死後、菅の三塁打を高木の安打で一点を先取。青中もその裏すぐに三番中野の三塁打を含む好打を連発して三点を挙げ、二回には両軍それぞれ一点を加えたが、10時10分降雨激しく福中2−4の場面で一旦試合を中止し両軍それぞれ宿に帰り待機した。

宿で鈴木監督は福中の過去のジンクスについて語った。「再開試合は優位にあったチームが必ず敗れる」と、自信満々に話され、精神力を奮い立たせるよう拳を振るって叱咤した。

正午過ぎには空も明るくなり、午後1時半に試合が再開された。午前中にひきかえ午後の福中は元気いっぱい、暗示にかかったがごとくいきなり三回に二点、四回には管のこの日二本目の三塁打で一点と連続得点を挙げ、守っては高木の頭脳的投球で青中に三回以降得点を与えず、5−4で快勝し、通算6回目の甲子園出場の栄冠を獲得した。

奥羽大会終了後、秋田より夜行列車で青森を経由して翌朝北福岡駅に到着、各自一度帰宅し、その日の夕方北福岡駅から青森経由で乗り継ぎ大阪に向かった。途中青森駅で乗り継ぎの関係から待合室で仮眠を取った。出発の時刻になり奥羽本線ホームに向かう途中の構内通路で、東北巡幸中の昭和天皇ご一行の列にお会いし、福中野球部一同優勝旗を先頭に横一列でお迎えした記憶が浮かぶ。

8月11日正午に青森を発車した急行日本海はまゆりの蒸気機関に揺られ、翌12日午後3時大阪駅着、正味の乗車時間は27時間あまりであった。秋田から連続すれば三晩列車に宿を取ったことになる。

宿舎は、西宮市今津町の甲子園球場スタンドホテルであった。外壁に蔦のからんでいるスタジアムの中にあり、四方がコンクリート、窓が一カ所の大部屋で夜になっても部屋全体が余熱で寝苦しかった。

夢にまで見た甲子園球場は、ものすごく広くアルプススタンドは「デッカク」、そして暑く、田舎チームの福中ナインはもうビックリ。特に大観衆の埋まるスタンドは、白色の服装に白い団扇が揺れると、白球のフライは目測が難しく捕球がたいへんだ。

山静代表の谷村工商と対戦する福中について、新聞の論評は三晩も列車に揉まれて選手達は疲れ果て、12日に大阪に着いて球場ホテルに駆けつけ、その翌朝は試合をしなければならないという、今大会では最も悪条件のチームである。これに反して相手の谷村工商は10日来阪以来、猛練習を続けているのでハンディの開きは大きい。

福岡中学の戸来誠監督談「最悪のコンディションを意に介さずフェア・プレイをやってのけるのが福中の取り柄ですよ。6回目の出場でもあるし、そうあわてず今日の試合は何とかものにするでしょう」と自信ありげに語っていた。

甲子園での初戦は福中の先攻で始まった。徹夜列車の車中生活を心配したが、案に相違してすこぶる元気で、谷村の並木投手のアウトローを巧みに引っかけて打ちまくり一回に四点、二回に二点、さらに四回一点を加え大勢を決めたかに見えた。

 しかし後半より、疲れがでたのか高木投手は球威を欠き打ち込まれ、また守備陣ももくそくを誤っての凡失等があり、谷村は六回二点、七回三点、八回二点を挙げ同点となった。大会初の延長11回、福中は高木の安打、川村セカンドゴロで高木二進、坂本右飛失一挙本塁をつき貴重な一点を奪い、それを守り抜き二回戦へと駒を進めた。

二回戦は北陸代表の高岡商業と対戦した。高岡商に二点を先取されながらも、四回裏福岡二死後高木の三塁打を川村の安打で一点を返し、六回裏一点を追加し同点とした。七回裏に二点を挙げ勝ち越したが、八回表高岡商は長短の安打と守備の乱れから六点を奪った。さらに九回表に一点を追加され点差は五点となった。

福中最終回の攻撃はもの凄く、石井、管が出塁し高木の本塁打で走者を一掃し二点差に。その後坂本は三塁失に生き、古川の安打で二進、川袋の二ゴロでそれぞれ進塁、横舘の内野安打で坂本生還、古川三進したが、長内の遊ゴロで万事休した。

昭和23年には学制改革により高校野球となる。改革により旧制中学五年生はそのまま卒業する者、新制高校の三年に編入する者があった。前年の野球部五年からは4名が抜けたが、連続の甲子園出場を目指して猛練習を始めた。

前年同様に岩手県大会を制して奥羽大会に進んだが、初戦で青森中学に敗れた。最後の甲子園行きの関門である奥羽大会の敗因は、健康、食事、練習を含めての総合的な管理の失敗であった。

宿舎は設備が悪く、蚊の群れにおそわれ部屋に吊してあった蚊帳は破れており、蚊取り線香もなく、あくせん 苦闘の末に朝を迎え睡眠もろくにとれず、試合ができる状態ではなかった。戦災にあった青森で直面した時間帯で宿舎替えできる環境ではなく、今でもやり場のない無念が残る。

連続甲子園を目の前にして、武運拙く敗退を余儀なくされたが、青春時代を悔いなく野球一筋に球友と過ごした事は生涯の喜びである。



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