陣場台熱球録 web版 その75

甲子園出場までの道程 証言・久慈 浩

  昭和33年、第40回記念甲子園大会は、各県から一校出場できるという記念すべき大会でありました。私はその年、二年生でショートを守らせていただき、二番バッターとして憧れの甲子園に出場できる幸運に恵まれました。三年生の選手が二人の体調が悪かったのもあります。

しかし、運だけで出場できたとは今でも思っていません。その成果までには、秋・冬・夏の猛烈な練習があったのです。

前年の夏の大会が終了すると、南舘正行さんや小保内聖子さん他のたくさんの全国レベルの陸上選手を育てられた中村精七郎先生が野球部長に就任されました。秋から春までの練習は陸上部と一緒に走らされました。その練習内容はすさまじい物でした。

しかし、猛練習をして参りましたが春になってからの練習試合でも成果が出ず、春の地区予選は一戸高校に負けて県大会には出場できませんでした。前年の秋から5月下旬まで、私の記憶では3勝11敗1引き分けという結果でとても甲子園出場など夢にもできるとは思っていませんでした。

6月の初旬、村田栄三先輩の後輩で日大の香推監督と日大レギュラー選手二名が我々のコーチとしておいでになりました。数日遅れて、当時東京六大学のスーパースターでプロ野球のナンバーワン指名選手といわれておりました早大の徳武選手もコーチとしておいでになり猛烈な練習が開始されました。

福高野球部の練習は皆さんが経験されているように猛練習が伝統です。しかし、当時の大学生から受けたノックでの守備練習はたいへんなものでした。我々がこの練習について行けたのも、秋から冬・春にかけて陸上部と一緒に走り込み、下半身をしっかり作り上げたからだと今でも強く思っています。

いよいよ夏の県大会が始まりました。香推監督になってから二試合程度しか練習試合をしていません。守りの練習を重点的にやらされ、攻撃のサインを四つ、守りのサイン(トリックプレイ)を四つ、徹底的に指導され頭の中にたたき込まれました。

大会に入っても他チームの試合は一切見せられず、ミーティングで監督と選手がしっかり打ち合わせをさせられました。現代風にいえば、我々は監督に「洗脳」させられ、監督に指示通り動けるチームになっていたと思われます。

県大会は雨が多く、五試合勝ち抜くのに約二週間盛岡に滞在したように思います。我がチームは投手をひとりしかもっていないので、この雨が絶好の休養日となり、作戦もこうしゅとも要所要所で確実に決まり、5試合を勝ち抜き甲子園への切符を手に入れることができました。

この優勝には、たくさんの方々の応援やご協力、そして伝統ある福高野球部大先輩の人脈があってこそなしえたものだと思います。

香推監督とのご縁は、村田栄三先輩が日大野球部時代に香推氏の一年先輩で一緒に野球をやったことにあります。また、早大の徳武選手のお父さんが福中野球部の大先輩(昭和4年主将)で、母校のために派遣してくれたのも縁としかいいようがありません。

そして、陸上の名選手を育て上げた中村部長の強い指導力あったこと。大沢主将を中心に、苦しい時を乗り越えたすばらしいチームワークがあったこと等がかみ合って大きな成果につながったと思われます。

最もすばらしい事は、他校にはない強力な後援会、OB会、地元野球ファンが一致団結して野球部を支えてくれたからだと思います。後輩の皆さんの甲子園出場を心から祈念しています。



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