陣場台熱球録 web版 その74

証言 寺田暁郎

 私が岩手にやってきたのは昭和14年のことであって、和歌山県から岩手県立福岡中学、この福岡高に転任となって赴任し、今校門に通ずる坂道を登り切るところの光景である。その日の細かいことは忘れてしまったが、この校門にさしかかったときの一瞬がどういうわけか、その辺の一木一草までが印象に残っているような気がする。

 明るい南国、和歌山から来た私には福岡の風物一切がどうも薄墨を一刷さっとなすったような、どうもからっとしない印象をぬぐえないのは、この第一印象以来である。

 岩手に来るまでの私は、和歌山、東京、埼玉、山口と比較的日本では文化的だと思われる地府で育ち、また住んでいたので、この第一印象以来わたしは福岡の人たちより文化的であるという優越感をもってしまった。誰も彼も軽蔑すべき田舎弁をつかう。服装は野暮ったい。店頭には品も少なく装飾もなっていない。見るもの聞くものただ私の優越感を増すだけであって、軽薄な私はこの町の良さは何一つ発見できなかった。

 いよいよ福中の教師となって生徒に接してみても、前任校の生徒のように規律正しく端正な服装はしていない。弊衣破帽、だらりと下げた鞄と手ぬぐい、だらしなく巻いたゲートル、授業態度も無神経かと思われる不敵な顔つき、指名しても一向にハキハキ返事をしない。これでは文化的に一世紀も遅れているなと思った。私は岩手に1〜2年の心算で来ていた。東北も一度経験しておくのも後学のためといった軽い気持ちで来ていたので、一段高いところから高慢な気持ちで見下していたようなものである。

 そのうちに私の気持ちを変える一つの動機があった。この学校は前から野球が強いと聞いていた。私は和歌山の学校にいたときに野球部の副部長をしていた。和歌山県は野球の盛んなところで、良い試合も随分見てきたし、私の眼は相当肥えているはずである。福中強しと言えどもこの田舎野球何程のことやあると見くびっていたのであるが、6月のある日八戸中学との練習試合が行われた。八戸も割合強いので知られた学校であったが、その日の試合を見て驚いた。平常無神経で鈍重であると思っていた選手が、何と試合になると実に機敏でしかも適格な動作で試合を運んでいた。その試合は八戸に圧勝したが、この実力は前任校より勝っていることを認めたと同時に、生徒の無愛想な顔つきとか態度は、本質的には、規律正しく愛想の良い前任校生徒と変わりないものであり、またそれ以上のものかも知れないことをも認めた。

 こうして私はこの学校に12年もいてしまった。今になって別に永くいた感じがしないのは、私自身が東北人の中に溶け込んでしまったのであろう。戦争を挟んでの前後12年間には、随分いろいろの変わったことや、面白いこと、思がけがけない幸運などがあった。

 私にとって、この学校にいたために思いがけず巡り会った幸運がある。元々私は野球が下手で尋常の星のもとでは甲子園の野球を見物するなどということはあまり考えられないことであるが、この学校に来たばっかりに甲子園大会出場校の野球部長として堂々と入場する機会を2回も与えられた。実に晴れがましい、誰にでも自慢のできる幸運であった。私にこの幸運を与えて下さった野球部関係者に心から御礼を申し上げたい。


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