陣場台熱球録 web版 その73

あの頃の思いで 20年前の本校野球部

証言  安達不二夫  昭和25年7月10日発行「福高新聞掲載」 

昭和2,3年といえば、今から20年以上の昔であり現在の若い人々にとっては、そんな時代の物語は淡い夢の世界の話よりも、感興をひかないかも知れないが強いてのご依頼辞み難く思い出ずるまま筆を執ってみることにいたします。

全盛とか黄金時代とかいう言葉がゆるされるならば、確かにこの時代が過去におけるそれでありましょう、然しそうした時代が一朝にして生まれくるものでないことは申すまでもなく、相当な時間と、これに伴う諸条件のあったことは勿論です。

大正15年、中津川はじめチームの根幹を形成しておった選手を送り出しバトンは新主将の佐藤(後年福島高商の主将)に握られた。

春とはいえ、まだそれらしい色すら見いだしかねる3月の半ばを過ぎると、先ずグランドの残雪は彼らの手によって取り除かれ、春分の日を期してトレーニングが開始された。中津川に代わってあらたにマウンドを踏むのは2年生の戸来であり、捕手としては1塁から転じた村田であった。練習は元気一杯というより遮二無二という程であった。

この間、家庭の故障や何かで退部する者もできナイン以外には未経験者の補欠が2名という姿であり、つくづく創設の苦難を味はされたものであった。然し1年前までは菜摘籠を背にしグランドの周辺を彷徨っていた選手の姿も鎮守の森の太鼓の音に子供らしい欲望を抑えきれず、密かに脱出して行った選手らも今は全くその影を見ることができなくなったことに喜びと力を感じた。

かくして6月に入り、鶴首して待った中津川が帰郷できなくなり、その苦衷を哀れんで名もない東北山間の中学のために自らコーチの一役を買って下さったのが天知さんその人であった。恥ずかしい話が、その当時「スランプ」とか「ウエストボール」などという極めて平凡な用語すら解する者がなかった程の知識であった。

天知さんのソツのない、その指導ぶりは高潔な人格と相まって我らに多大な感銘を与え、科学的な野球というものを教えて下さった唯一の恩師であるといえよう。わずか8日間のコーチではあったが、選手の進境見違えるまでになったことは衆目の等しく見るところであった。

やがて大会の日も迫り今年はとてもと言いつつも、健気な選手の態度を愛で快く福島の会場へ送り出してくれた。

盛商にこそ16−1と快勝したものの、仙台二中、福島商という地方の強豪にはわずかに3−2、あるいは2−1と実に苦しい勝利の後、決戦を盛中に求めることになった。

安打数において盛中の2に対して5,失策も4に対して僅かに1という好条件にありながら、連日の苦闘に疲労をおぼえた苦しい投手から奪われた11の四球がついに勝ちを譲って静かに陣を退かねばならない結果となった。

然しこの戦績こそ彼らに自分の力を知らしめ、そして努力こそが唯一の道であり、純真な心こそ常に正しいものを感得し得ることを深く肝銘せしめた尊いものであった。

帰校後、1日の休暇をあたえたのみ帰省の楽しみも忘れ、直ちに来るべき年への準備として練習を開始した。鈍足を痛感した彼らは、小向先輩の忠言による愛宕山の石段を駆け足で昇降することから始めた。これは脚のピッチを強めるための練習であり、他日大いに役立ったことは申すまでもない。

やがて新しい学期を迎え、学習と練習に精進した。山狭の秋は更けやすく、いつしかグランドの練習には終止符を打たねばならなかった。然し今年からは冬期間といえども、毎日体操、バット振り、室内でできる限りの球の処理をして、1週間に2回をセオリーの講義やルールの研究などが昆監督によって始められた。

腹心新たな春を迎え、グランドの練習は張り切った。7月の大会には、当時では仙台で強豪を謳われた東北学院を16−1で破り、次いで岩手師範を6−0,仙台商業を13−1で降し、当然顔を合わせねばならぬ盛中との決戦となった。

決戦の会場は盛中グランドであった。堵をなす数万の観衆は、これことごとく盛中の応援で、福岡からの有志は100名あまり、全く大海の一粟にすぎなく思われ息詰まる空気の裡に試合は開始された。

劈頭から盛中山田投手の好投に阻まれて得点の機を作り得ず、盛中2回の攻撃には2塁にあったランナーが次打者の右前安打に一挙本塁を陥れんとするを、わずかに二塁手の機転と好返球により危機を脱するなど絶えず圧倒されつつ、塁上人影なく投手戦を続け補回戦(延長戦)に入り、第13回一死後に佐藤の安打での出塁が因をなし、戸来の遊ゴロを遊撃手と一塁手の交互にファンブルする間に長駆生還して決勝の1点を挙げ、多年精進の実を結んでここに甲子園原頭に駒を進めることになったのである。

さて甲子園においては、危惧の念に駆られながら試合は第三回戦まで進んでくれ、神港商業を8−1、北野中学を8−1で破り余威を駆って迫り来た高松商業をむかえることとなった。

猛打を以て鳴る高松も、戸来の健腕に封ぜられ第8回まで3塁を踏むものなく、ついに第9回に外野手に失策からむかえた1死3塁のピンチも満塁戦法によって危機を脱し、ついに第12回に敗れたとはいえ、その真摯な健闘は万人の等しく認めるところとなった。当日の新聞で球界の大元老飛田さんは、戦評の結びに次のように筆を執ってくれた。

「彼は総て与えられた秘術を尽くし、中学球界稀に見る第9回の四球戦法を用い、恰も何らの暗示を得たるもののごときスクイズの防御をなした。敗戦何ら恨むところぞ。」

大会余話として次のような一句も書いて下さった。

「・・・ついに敗れたが、その健闘は万人ひとしく感激して頭を垂れて退場するときには鯨並のような拍手をもってこれを送った。このシーンは誠に劇的で感銘深いものがあった。」

また、朝日新聞編集の大会史には「・・・殊に第三次戦で、高松商業の打撃を完封し、11回まで両軍0−0で進んだときの絢爛たる投球は数万の観衆を陶酔せしめた。・・12回の裏にいたって、惜しき決勝の1点を高松に奪われ、静かに陣を撤して退いたが、チーム全体の微塵も嫌味のない純朴な態度と共に、凡ての人の道場はその上に集まった。」と書かれている。

大会の決勝戦において広陵中学を5−1で軽々一蹴した高松としては、正に苦難の一閃でもあったろう。これにより地理の先生ならずとも、野球を愛する人々には、東北の地に福岡の存在がハッキリされたのである。

年の更まると共に外野手をことごとく送り出し、内野手もまた一部のシート変更があったとはいえ、投捕手の儼として存するあり、打撃の著しい進境は一段の強みを加え、大会もことごとく敵に1点もゆるさず、再び駒を甲子園原頭に進めたことは申すまでもない。

 然し、私はこの輝かしい戦績をもってのみ全盛という言葉は筆にしたくないのである。即ち、この時代の選手は自己の行動はことごとく部の栄辱盛衰に関することを弁へ、野球は自己完成の唯一の道と信じて精進を続け、決して他より指弾さるる如きなく学業に励み、一高より東大へと進み遂に学位まで獲た辻村はこの時の選手で、高農に進み深く為人を愛された久保田また然り。5ヶ年無遅刻無欠席の精勤者として表彰されたその年次唯一の人として昭和2年には佐藤あり昭和3年には久保田があった。

先生に心配をかけるなとは彼らが下級生に教える唯一の言葉であった。浮華を斥け明け明朗にそして重厚礼譲な彼らは如何なく、未知の地へ行っても驚異の目を瞠って敬愛されたものである。

然し、私は徒に席次を争う如き愚を彼らに強いたのではない。学習勉学は学徒の重大な責務であり、その責務を果たし得る人にして初めて健全な社会人となりうると信じておったからである。尊い昆監督の業績は、部をこれまでに持ってきたことにある。詳しいことはここに割愛しなければならないことを深く遺憾とする。

私は黙々として6年間ベンチを暖めた。蓋し彼らの勤怠を監視しようという卑しい考えのそれではない。何にも知らない私として、彼らの労に報いる一つの道と信じたのみ。日もドップリ暮れた夜道を彼らと語りながら帰路についた姿は、今なお懐かしいものの一つである。

諸君のユニホームの胸に輝くHの字は、大正15年野球部の更生にあたって、従来のローマ字の配列を廃して新たに定めたものである。今見るにつけ、まことに感慨深いものがある。来校運隆々、過般創立50周年の祝典が挙げられたはずである。この意義深き年にあたり、諸君の力により再び真の野球の復活を願ってやまないものである。指導者には恵まれている。要は不断の研究と練習にある。妄言多謝。


中央安達部長 昭和7年からは日大三中部長を務める


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