陣場台熱球録 web版 その72

昆 徳治

二戸市営大平球場の敷地内に、球場を見渡すように昆徳治の銅像が建っている。銅像には「昭和59年10月吉日」と刻まれ、福岡高校野球部OB会が移設したことが書かれている。銅像のモデルとなった昆徳治は大正13年(1924)夏、福中野球部初の公式戦といえる夏の甲子園大会予選では二塁手として活躍した。在学中は柔道部の猛者としても知られ、福中卒業と同時に野球部の初代監督に就任した。

小向八郎(大正8年卒)、内藤正介(大正9年卒)とともに「三人組」と呼ばれ、三人集まれば福中野球部の強化のための相談をした。早稲田大学の大下常吉(八戸中学出身)や明治大学の天知俊一などを福中に招き、選手の強化に尽力したのも昆徳治監督の時代である。

昭和2年には、戸来・村田の名バッテリー、鈴木銀之助、佐藤五兵衛などの名選手をまとめて甲子園大会に初出場、準々決勝の高松商業との一戦では日本野球史上初めての敬遠満塁作を成功させるなど名監督の道を歩んだ。

昭和4年(1929)3月には就職が決まり、監督を後輩の小坂力に譲り樺太に渡ることとなった。数年で帰る予定であったが、福岡に帰ったのは終戦後であった。樺太行きに先立ち、三人組(小向、内藤、昆)が盛岡に集まり今後の福中野球部について話し合い、OB会組織を作ろうということになった。それまでのOB会らしきものとしては、「形水会」や「日の出クラブ」などがあったが、福中野球部の後援というよりは実業団大会に出場するクラブチーム的な要素が強かった。この席上でOB会組織の強化を決め「野球部OB会」が正式に発足したのである。

昭和23年(1948)6月、福岡に帰った昆徳治は早速野球部のための行動を開始した。福高グランドにスタンド設置計画があるのを知り、地元の協力者に寄付金を募って廻った。有力後援者もこの計画に賛同し、資金もそれなりに集まり着工にこぎ着けたのである。

昭和36年(1961)の甲子園には、福高ナインとともに遠征し水原茂(当時の東映球団監督)や飛田穂洲などと旧交を温めた。昭和41年(1966)11月には、福中・福高野球部関係者で「還暦」のお祝いが開催され、赤いユニフォームが贈られた。

昭和43年(1968)10月10日には、OB会から胸像が贈られた。製作者は一戸町在住の高見恭三氏であった。できあがった胸像は昆徳治自身が保管していたが、福高新校舎完成に際して福高グランドが見渡せる福陵開館(現在は取り壊して存在しない)脇に設置された。昭和49年(1974)月28日、昆徳治は69歳でなくなったが胸像は野球部員の練習を見守った。

昭和50年(1975)年4月25日には、自身の野球人生の自伝書ともいえる「福中・福高野球史」がとしこ夫人によって発行された。現在に至るまで福高野球部の歴史を語る上で最良の資料となっている。

昭和59年(1984)10月、二戸市営大平球場が完成すると野球部OB会の手により現在の場所に再設置され、多くの野球人を見守っている。


昆徳治の銅像。その後に福高グランドに移された。


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