陣場台熱球録 web版 その71

戸来投手のオール岩手、巨人軍に惜敗!

 昭和11年秋、発足したばかりの職業野球(プロ野球)チームの巨人軍が宣伝を兼ねて 北海道・東北遠征を企てた。岩手県では花巻球場の球場開きを記念してオール岩手と対戦することになった。オール岩手には福中卒業生として村田栄三、戸来誠、久保威貞の三名が選抜されて参加した。

当初は、戸来・村田の黄金バッテリーで対戦する予定であったが、盛岡中学出身の名選手・久慈次郎選手のポジションが捕手であり、岩手県野球界の大先輩ということで戸来・久慈のバッテリーで巨人軍と対戦した。

急造バッテリーではあったが、久慈捕手のリードは冴え渡り巨人軍をわずか1点に抑えた。社会人になったとはいえ、戸来投手の頭脳的な投球術は健在であった。巨人軍の投手は、日本球界初の300勝投手に輝いたスタルヒンであった。オール岩手は、スタルヒン投手からわずか2本のヒットしか奪えずに完封されてしまった。

戸来投手をリードした久慈次郎捕手は、社会人野球に「久慈賞」として名を残す岩手県野球界が生んだ大選手である。明治31年に青森市で生まれた。生まれてまもなく一家は盛岡に引っ越す。明治45年(大正元年)盛岡中学に入学。四年生の時に夏の選手権大会が始まったが、盛岡中学は大会が行われているのを知らずに不参加であった。最上級生になった大正5年は東北大会の決勝で一関中学に敗れ、夏の選手権全国大会には出場できなかった。当時は盛岡中学が無敵を誇っていた時代であり、大会開催を知っていれば夏の選手権にも出場していた可能性が高い。

盛岡中学卒業後は早稲田大学に進学し、メキメキと頭角をあらわした。大正11年に早稲田大学を卒業し、早稲田OBの剛球投手・橋本隆造のいる函館大洋倶楽部に入団する。昭和6年、第1回日米野球大会が開催され全日本の主将に選出された。昭和9年に行われた第2回大会にも主将に選出され、沢村栄治とバッテリーを組み活躍した。

この時のチームが「大日本東京野球倶楽部」に発展する。このチームでも主将を負かされている。このチームは後に巨人軍に発展するのであるが、事情があって巨人軍とは契約せず函館大洋倶楽部に残った。オール岩手ぐんとして巨人軍と対戦するのは、こうした時期であった。

昭和14年、札幌丸山球場で試合に臨んだ久慈は、一塁ランナーとして盗塁した際、相手捕手の送球が左こめかみを直撃し(当時はフリップ付どころか、ヘルメットすら使われていなかった)、当時の新聞報道によれば「一度身体を大きく反らせてから地に伏せて」倒れこみ、そのまま帰らぬ人となった。久慈の棺を乗せた列車は札幌から函館に向かったが、停車駅ごとに熱烈な野球ファンが駅に詰めかけて、久慈の死を惜しんだといわれている。
また、久慈の墓は
函館の小高い丘の上に立てられ、その形はボールをかたどったものとなっている。函館オーシャンスタジアムには久慈がミットを持ち構えている銅像が建てられているが、その銅像は、全日本で一緒にプレーしたヴィクトル・スタルヒンの銅像が建つ旭川スタルヒン球場の方角を向いている。

久慈の死を受け、都市対抗野球では第18回大会(1947年)から、敢闘精神あふれる選手に与える賞「久慈賞」を設けた。
また、昭和34年に創設された野球殿堂では、正力松太郎や沢村栄治らと並び、第1回の殿堂入り選手となった。


久慈次郎選手


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