陣場台熱球録 web版 その68

鈴木銀之助

 昭和初期の福中黄金時代に、一塁手として活躍したのが鈴木銀之助(昭和4年3月卒)である。戸来・村田のバッテリーがピンチになるとどこからともなく駆け寄りバッテリーを叱咤激励した。当時としては大柄な選手で福中でも際立った存在だった。

 福中卒業後は明治大学に進んだ。明治大学でも三塁のレギュラーポジションを掴む。明治大学でレギュラーを掴んだきっかけも猛将といわれた鈴木らしいエピソードが伝わっている。

ある試合の途中から三塁の守備についた鈴木選手に、モーレツなライナーが飛んできた。その打球をグローブで掴むまもなく胸に受け、すぐに拾って一塁へ。そのまま意識を失い病院へ直行。そのガッツあふれるプレイは当時の明治大学岡田監督に認められレギュラーに抜擢された。

当時人気絶頂だった東京六大学の選手の中でも、ブロマイドの売り上げが一番だと噂され、慶応の宮武、水原、早稲田の三原などと並んで野球雑誌の表紙を飾ったりもした。明大在学中も度々福中を訪れ後輩達を鍛えた。

三塁に滑り込んできたランナーにスパイクされ、そのランナーの胸を掴んで殴ったエピソードも武勇伝として伝わる。大学同年の戸来誠投手と、明大野球部の隠し芸大会で福中応援歌を披露し、その応援歌が明大野球部でも流行した。「九戸古城の武士の香を・・・」

  明治大学卒業後は満州電電、東京クラブ、大浜紙業などで野球を続ける。戦後の昭和23年、福中が6回目の甲子園出場時には奥羽大会の監督を務めた。岩手県大会は村田栄三、甲子園は戸来誠監督と昭和2年の黄金メンバーであった。

  選手の守備練習には、取れそうもない飛球を打っては、「今のは捕れた。捕れるぞ。もう少しだ」と叱咤した。選手をその気にさせるのが上手く、選手もいつの間にかその気になった。ともかく選手に暗示をかけるのが得意だった。

  昭和24年の夏までは福高(昭和23年に学制改革)の練習に参加していたが、ピタリと来なくなった。どうしたものかと選手達が不思議に思っていると、秋口にひょっこり現れた。その胸には誕生したばかりのプロ球団「広島東洋カープ」のユニフォームが輝いていた。

昭和25年発足したばかりの広島東洋カープに入団。背番号は35番。この時は既に40才となっていた。選手としての一軍公式戦の実績はなく1年限りで引退した。市民球団として苦難のスタートを切った広島球団であったが、関西での鈴木銀之助の知名度は高く球団創設の資金集めに貢献したようだ。プロ野球が10年早く誕生していればプロ野球の歴史に名を残した選手となったことだろう。後年、婿養子となり鈴木姓から中島姓に変わった。



目次に戻る


甲子園100年物語 輝いた東北の男たち
 岩手から世界へ伝統への挑戦「南部美人」 
貯めて使える。便利でお得な楽天スーパーポイントで楽しさアップ!

inserted by FC2 system