陣場台熱球録 web版 その67



 大正13年に入学した村田栄三は、入学当初は体も小さく、先輩方から「もう少し体ができてから入部」することを勧められ、入部することができなかった。

  その年の秋に地域の学童野球大会があり、堀野地区から出場したチームは見事優勝を成し遂げたのであった。その大会には、中学生であっても13歳の誕生日までは出場できるもので、村田栄三は、堀野チームの主将として出場したのであった。

  優勝した後に中学校に登校すると、福中の中心選手として活躍していた中津川主将が村田のいる教室にやってきた。

「堀野の村田は誰だ。明日から野球部に来い。」と言って、入部が決まった。

先輩捕手の小坂国男に徹底的に始動され、後に明治大学のエースとなる中津川の投球を受けて成長した。大正15年から福中の正捕手として名投手・戸来誠をリードして福中全盛期を支えた。

  大正15年には明治大学の天知俊一から指導され、後年、中日ドラゴンズの監督として日本一に輝いた天知俊一に、「私が教えた中で野球を理解しているのは牧野君(V9巨人軍の名参謀)と村田君だ」と言わせた名選手である。

 昭和2年夏の全国大会での高松商業戦、一打サヨナラ負けのピンチに史上初の敬遠満塁策を成功させた。当時全盛を誇った和歌山中学や選抜で優勝した関西学院などとも名勝負を演じた。

福中卒業後は、日大の中心選手として活躍し仙台鉄道に進んだ。

昭和11年には南海球団から誘われたが年齢的な面からプロ入りを断念。昭和24年にも天知俊一が中日監督に就任するとヘッドコーチとして入団を誘われた。< 

戦後は郷里の福岡駅長などを務めるかたわら、福高選手の指導に当たった。昭和22年の岩手県大会では監督として優勝に導き、奥羽大会は同級の鈴木俊一が引き継いで優勝し、甲子園出場を決めた。甲子園では村田とバッテリーを組んだ戸来誠が指揮を執るという豪華リレーであった。

昭和48年には盛岡三高の監督として甲子園に出場、三回戦に進出し「さわやか旋風」を巻き起こした。

福高野球部の9回目と10回目の甲子園出場時にも、コーチとして後輩達にアドバイスを送り続けた。



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