陣場台熱球録 web版 その64

陣場台の熱球 昭和3年選抜大会辞退の経緯

 旧制の県立福岡中学校野球部は、昭和2年夏の大会の活躍が認められて昭和3年春の第5回選抜大会に選抜されたが出場を辞退することとなった。一部の資料では福岡県の福岡中学が辞退したと伝えられているが、岩手の北僻・福岡中学が成し遂げた学生野球史に残る偉業の経緯を記し後世の資料としたい。

昭和32月、第5回選抜大会出場校を決める選考委員会が大阪毎日新聞社で開催された。各地の支局、通信部が全国の中等学校の年間成績を調査し、それに基づいて29校を選び出場候補校と決定した。東京都と神奈川県については、選抜大会開催時期にリーグ戦を実施するために選抜候補から除外した。現在ほど選抜大会が重要視されていなかったのかもしれない。

 前年の第4回選抜大会に優勝した和歌山中学の優先出場を満場一致で認めた。和歌山中学は、夏の大会に第1回から14年連続連続出場し、優勝も2回を数えるこの当時の名門中の名門であった。続いて鹿児島商、下関中学、柳井中学、広陵中学、松山商、甲陽中、関学中、平安中、高松商、松本商、大阪の1校(決め手がない)が選ばれた。大阪の1校にあっては大阪中等学校野球連盟に推薦を求め、開催地を代表して市岡中学が推薦され承認された。この後に我が福岡中と愛知商が選抜された。

 残る2校の枠を島根商、高松中、北予中、静岡中の中から委員の投票によって選ぶこととした。投票の結果、島根商と高松中の出場が決定した。

 この結果を受けて大会本部では、福中選抜出場決定の報を電報で福岡中学へ打電した。受け取った福岡中学では選抜されるとは全く予想していなかった。原校長は、すぐに安達部長と昆監督を呼んで相談した。予算不足は明白であったし、何よりもグランドは雪に閉ざされ満足な練習もできない。東北地区を代表して出場するからには不様な試合はできないという思いが三人に共通した。校長と安達部長は苦渋の決断をする。出場辞退である。すぐに大会本部に「練習不足により期待されるような試合はできないため、出場を辞退する。」旨を打電した。

 大会本部では、福岡中学の辞退を受けて静岡中学を選抜した。現在の一般的な考え方から言えば、このような理由での辞退は考えられない。 しかし、福岡中学が創られた精神的、歴史的経緯を考えれば、「福岡」らしい決断だった。

 福岡中学は、1901(明治34)年4月28日に岩手県下で三校目の中学校として開設された。この当時の二戸地方は県内の各地方と比べても、人口、納税額など最低であり、これといった産業もなく、本来であれば中学校(旧制)などできるはずもない状況であった。しかし、古代より続く「反骨と進取」をあわせ持った一種独特の気風もあり、激しい誘致合戦を繰り広げた、水沢、花巻、釜石、宮古などに先んじて中学校が開設されたのである。

 創立当時からの教育方針は一貫していた。「白河以北一山百文」と言われた辱をそそぐ人材を育成することである。白河以北の代表として出場する以上は不様な試合はできない。こうして、第5回選抜大会の辞退を決定したのである。もしもこの時に出場していれば、東北・北海道地区としては昭和13年の北海中学を遡ること10年、東北地方に限れば昭和30年の一関一高を遡ること27年の快挙であった。

 出場辞退が決定すると、安達部長は電報を持って野球部員の前に現れ、選抜されたことを告げた。それとともに選抜出場を辞退したことも告げた。「辞退はまことに残念であるが、練習不足のまま出場しても、我々の力を発揮することはできない。選抜されたことを栄誉と思い、今度の夏に全力を傾け必ず甲子園の土を踏もう。」と力説した。 選手自身も、安達部長の力のこもった話を理解した。

 迎えた昭和3年夏の大会は圧倒的な強さで東北予選を突破し甲子園に駒を進めた。その大会でも初戦で神奈川商工を破り、次の試合では名門の平安中学に惜敗する。この活躍が認められて、秋に東京で開催された東京六大学連盟主催の奉祝大会に選抜されて出場した。時期的にも充分な練習を積むことができ、自信を持って大会に挑んだ。

 初戦で春の選抜大会で優勝した関学中と初戦で対戦し9−8で勝利をおさめた。次戦は当時の中学球界最強であった和歌山中学の小川投手と対戦することになった。 和歌山中学の小川投手は歴史に名を残す偉大な投手である。この和歌山中学を後一歩まで追い詰めたが2−3で惜敗する。試合前の某新聞には「東の戸来か西の小川か!」という見出しも見られるほど、当時のファンには注目された一戦であった。以降、昭和4年も東北大会を制して3年連続出場の快挙を成し遂げる。昭和5年は東北予選の決勝で敗れたが、昭和6年には再び東北予選を制して4回目の出場を果たしている。

 岩手県内で、盛岡中学、一関中学の両雄を目指し台頭してきた福中野球部の勇姿は、昭和初期には確固たる地位を築いた。大正13年に初めて予選に出場し、10年も経たないうちに東北予選を4回制した強さを、当時は”神を呼ぶ”とも表現されたそうだ。

 なぜに突然強くなったのであろうか。実は他人にはそう見えるだけである。突然に強くなるはずなどない。その中味は血の滲むような努力の結晶なのだ。一言で言えば基礎練習の繰り返しである。試合でも、勝ち負けにかかわらずその反省会を開き、その反復練習を続けたのである。当時最先端の技術を持った大学などからコーチを招き、技術や戦法を学ぶことも怠らなかった。先輩格の盛岡中学からも胸を借り、コーチに招き強化を図った。  ”福岡の精神野球”と評されるものは、実は基礎の反復により得られた技術と自信に裏付けられたものなのである。

 昭和4年春にも我が福岡中学に選抜出場の打診があった。前年と違い、福岡中学が出場を承諾したら選抜するという条件だった。福中関係者は、この大会には参加も検討したようだが、結局は前年同様に辞退することとなった。


昭和3年春の優勝校関学中学。秋には福中はこのチームから殊勲の星を挙げる。


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