蓬田城主と相馬大作のこと

 津軽一統誌によると、天正13年3月26日に油川城主奥瀬善九郎が為信と戦わずして南部に逃れ、次いで高田、荒川、横内辺の者ども悉く降参した。その外に蓬田越前は近辺同志の者はほとんどが過半降参し、かえって越前を討たんと計る状態であったので堪えかね南部の方へ落ちていったとある。

 南部へ落ちていった城主蓬田越前の名は、残念ながら相馬家の系図には書かれていない。しかし越前の弟小三郎が田舎館の内新館に移住した。津軽を統一した為信が、蓬田越前の縁者に出向するように呼び掛けたところ、越前弟の小三郎が委細を申出たところ、高野、荒川にて知行高五十石召し抱えられた。以後小三郎の子孫は代々津軽藩に仕え明治維新をむかえた。

 津軽藩では、下斗米将真が蓬田越前の子孫だと語られてきた。蓬田越前が落城してから南部下斗米村に住居し、文政年間に下斗米将真(村相大作)が津軽侯を狙撃したのは、祖先の仇を撃つための行動だというのである。

このことに関し郷土史に詳しい西田源蔵氏が、昭和5年に東奥日報に「外ヶ浜の史蹟、蓬田の城址」中で相馬大作が蓬田越前の後裔でないと発表している。

また、坂本種一村長が二戸郡福岡町(当時)まで実地調査に出かけた。相馬大作の縁者下斗米家を訪ねたところ、その家は相当の構で白髯の主人が出て応対した。そこで相馬氏は蓬田越前の後胤ではないかと尋ねたところ、沸然として色をなし「憚りながら名誉ある相馬大作の家は為信ごときに追い落とされる弱虫の蓬田越前などの子孫ではござらぬ」とたいそうな剣幕であった。

公式には津軽相馬家も下斗米家も遠祖は平将門である。しかし両家を比較して祖先は同じ将門であるが、両家は血のつながりがないことから、相馬大作は蓬田越前の後裔でないことになる。

しかし下斗米将真の偽名が相馬大作であることや、陸奥浄法寺駒ヶ嶺の相馬氏の動向を考えた時に、下斗米将真と蓬田越前に全くのつながりが無いとも言い切れないような気がする。






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