津軽蓬田城と陸奥浄法寺のこと

 津軽蓬田村には、二戸地方の相馬氏との関連があると思われる歴史が伝わっている。村に残る蓬田城址の概要は、大きく大館と小館に分けられる。大館は、蓬田川の北にあり広大な面積を有している。東西600m南北300m。水田に囲まれ、周囲より一段高い、杉木立に覆われた場所である。小館は東西150m南北150m。周囲を水田に囲まれ、比高2-3mほどの場所にあり、中央の幅5m、深さ3mほどの堀により東西に分けられている。この堀は北の阿弥陀川の水を引いている。築城当初は小館のみであったのが、南北朝時代から室町時代に大館が築城されたと思われる。

嘉禎4年(1238)に安東盛季の弟の潮潟通貞が築城したとされる。安東氏を南部氏が駆逐すると、奥瀬氏が入城し、奥瀬氏が退去すると、文明年間に平将門より8代目の相馬則政が入城し蓬田越前と名乗った。

津軽氏の祖大浦為信が勢力を伸ばすと、油川城などと共に大浦為信に対抗していたようである。「天正七年津軽三郡大方大浦為信の手に属しけれども、外ヶ浜筋平均未だ成らず。油川、高田、荒川、蓬田、横内の者ども召に応ぜざりしかば、油川を追落さるべしとて天正十三年三月彼の表へ手遣あり云々」との記述が残っている。

天正13年(1585)の油川城落城後、後蓬田城も大浦氏の支配下にはいり、蓬田氏(相馬氏)は南部に逃れたようである。

相馬氏がいつごろから蓬田城に居住したかは不明である。相馬家の先祖は平将門から数えて8代の後裔相馬利陳は筑前国舟原郡に住み、平治2年(1160)に起った平治の乱で討ち死にしている。そのため弟の相馬利勝家督を継ぎ、その子の利信は建保元年(1213)の和田義盛の合戦に加わっている。

相馬利信の三男は利久であった。その利久が理由は不明だが正嘉2年(1258)に陸奥常慎寺(浄法寺)の駒ヶ嶺に移住した。父である相馬利信が和田義盛の乱に加わって亡くなったことを儚んでともいわれるが、相馬氏(平氏)の領地が浄法寺地方にあったらしく、二戸地方に相馬氏(平氏)の一族が多数数でいることから、同族を頼っての移住であったかもしれない。相馬利久の孫利盛は陸奥駒ヶ嶺を領地としと記録に残っている。

そうすると、天正13年(1585)の油川城落城後、蓬田氏(相馬氏)は南部に逃れたという記録とも符合すのである。






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