吉田松陰

吉田松陰といえば明治維新の精神的柱で、多くの長州藩士に影響を与えた人物です。生年は天保元年(1830)で、安政6(1859)に明治維新を見届けることなく刑死します。

幕末の長州()藩士で、尊王攘夷派の志士です。諱は矩方、通称寅次郎、松陰は号です。父は藩士杉百合之助、母は滝。山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎます。嘉永3(1850)年九州を遊学、翌年江戸に出て安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山に経学,兵学を学びます。

12,友人との約束により藩から許可を得ないまま東北を遊歴し咎められて士籍を削られ、実家の杉家に預けられます。東北遊歴中には、尊敬する下斗米将真の足跡を訪ね、大舘白沢周辺では、「実は津軽藩襲撃は成功していたのではないか」と何度も尋ねたそうです。

6年江戸に赴き、来航中のペリーの黒船を視察します。佐久間象山の勧めもあり海外渡航の志を立てます。翌安政1(1854)3月下田に停泊中のペリーの艦隊に同行を求め、拒絶されて自訴し、江戸伝馬町の獄に送られました。

次いで萩の野山獄に移され、このときより「二十一回猛士」の別号を用いています。生涯21回の猛心を発しようとの覚悟だったと言います。時に25歳でした。

唯一の女性の友人ともいうべき高須久との交流が始まるのもこのときでした。12月出獄し杉家に幽居、 安政3年宇都宮黙霖からの書簡に刺激を受け、一君万民論を彫琢し、天皇の前の平等を語り、「普天率土の民,……死を尽して以て天子に仕へ、貴賤尊卑を以て之れが隔限を為さず、是れ神州の道なり」との断案を下しました。

翌年11月には杉家宅地内の小屋を教場とし、叔父玉木文之進の私塾の名を受けて松下村塾と名付けます。高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿、山県有朋、伊藤博文らはその門下生です。

門下生のひとり正木退蔵の回顧によれば、身辺を構わず常に粗服、水を使った手は袖で拭き、髪を結い直すのは2カ月に1度くらい、言葉は激しいが挙措は穏和であったそうです。

安政57月日米修好通商条約調印を違勅とみて激昂、藩主毛利敬親に幕府への諫争を建言し討幕論を唱え、老中間部詮勝暗殺を画策します。

12月藩命により下獄、翌66月幕命により江戸に送られました。1025日死を予知して遺書を書き始め、翌日の暮れまでかかり書き上げました。冒頭に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」の句を置き、全編を『留魂録』と命名しますが、その翌日に斬首されました。

下斗米将真の生涯が重なってしまいます



(吉田松陰像)



目次に戻る


JA全農いわて あべどり焼き鳥バラエティセット (冷凍) (30本セット)
麸一番 岩手特産 南部ふ【板麸】 5袋 【約20g×5枚入】(手焼板麩)
inserted by FC2 system