流泉小史

流泉小史

剣豪という言葉を編み出したのが北上市出身の流泉小史です。本名は小原敏丸で、明治20年に北上市黒岩で生まれました。昭和15年に東京牛込で亡くなりました。53歳でした。

旧制盛岡に入学しますが中退し、上京して学習院に籍を置いたようです。その時の身元保証人が榎本武揚でした。どのような縁で榎本が保証人になったかは不明ですが、その後は明治大学で学びます。

そこで福地桜痴の門下生となります。福地は明治時代のジャーナリストで劇作家です。天保12323日生まれで、幕臣でした。慶応4年佐幕派の新聞「江湖(こうこ)新聞」を発刊し,逮捕され発禁とったそうです。明治7年東京日日新聞社の主筆に就任し、明治9年社長となります。明治15年帝政党を結成し、明治37年衆議院議員となります。演劇改良の場として明治22年歌舞伎座を創設したことでも知られます。

明治大学をほどなくして中退し、福地の推薦で萬朝報に入社し黒岩涙香に師事します。そこで探偵小説や翻訳小説を書き将来を期待されました。

ところが、どういった理由か不明ですが経済評論家として知られる本田精一郎博士の知遇を得て、財政経済時報を手伝うようになり萬朝報を退社してしまいます。

大正12年に本田博士の推薦で東京日日新聞社に入社し、「我に三師あり」と後年語っていたようです。

小原が流泉小史の名で剣豪物を書き始めたのは、東京日日を退社してからの事です。文芸春秋に「剣豪秘話」連載して人気を呼びました。このことをきっかけとして「剣豪」という言葉が一般的になったようです。

この時に流泉小史のペンネームを使い、幕末の剣豪を同時代の人のように描いたので、「流泉小史」は幕臣ではないかとも噂されました。

流泉小史自身も剣道は五段の腕前でした。祖父は幕末から明治にかけては名の知られた小原文太郎でした。当然の事だが、流泉小史こと小原敏丸少年も剣の道を究めた文武両道の人であったはずです。

流泉小史は著書の中で「自分には幕臭がる」と言っている。つまり幕府側に立って物事を見ているのです。そして、著書の中で下斗米将真の事を剣豪として登場させています。

さて流泉小史の哲子夫人は、旧姓が下斗米でした。明治24年に福岡で生まれ、大正二年に日本女子大を卒業しています。戦前は川村女学院で教鞭を執り、戦後に夫の郷里に戻り高校の英語講師を務めています。三代前は下斗米将真と従妹関係であり、昭和49年に亡くなっています。

流泉小史は晩年に「相馬大作伝」を執筆していたといわれ、その膨大な原稿はIBC岩手放送の太田俊穂会長に引き取られました。その原稿は現在どうなっているのか興味があります。


流泉小史の会の皆さん




目次に戻る


JA全農いわて あべどり焼き鳥バラエティセット (冷凍) (30本セット)
麸一番 岩手特産 南部ふ【板麸】 5袋 【約20g×5枚入】(手焼板麩)
inserted by FC2 system