事件の背景

南部と津軽の確執は江戸期を通じて知られていたようですが、事の発端は戦国末期と言われています。戦国時代の末期から安土桃山時代、弘前藩初代藩主である大浦為信(後に津軽為信)は、盛岡藩主となった三戸氏(三戸南部氏)と同じく、南部氏の一族でした。この大浦氏に久慈氏(南部氏の庶流とされる)から養子に入った大浦為信は、1571年(元亀2年)に挙兵し、同じ南部一族を攻撃して、津軽地方と外ヶ浜地方および糠部の一部を支配しました。

津軽地方は雪深い土地ですが、土地が肥えており米の生産には適した土地でしたが、南部地方は冷涼な気候で稲作には適しません。南部家当主の南部信直は津軽奪還のために兵を挙げようとしますが、一族の九戸政実の動きが不穏で動けません。九戸政実は久慈地方にも勢力を伸ばしており、大浦為信とも通じていたともいわれます。

天下は豊臣秀吉のものになろうとしていた天正18年(1590)、大浦為信は豊臣秀吉の小田原征伐に際して、当時の三戸南部氏当主・南部信直に先駆けて参陣し、所領を安堵されて正式に大名となったのです。 

このような経緯から、盛岡藩主・南部氏は弘前藩主・津軽氏に対して遺恨の念を抱いていました。ただ、津軽氏側は南部氏とは異なる出自であることを主張していましたが、世間では津軽家は南部家から分かれたとの見解が一般的でした。

 南部と津軽の確執を語る上で檜山騒動と言われるものがあります。1714年(正徳4年)に両藩の間で境界線紛議が起きたとされています。これは、陸奥国糠部郡野辺地(現・青森県上北郡野辺地町)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺地の帰属に関して両藩が争ったもので、弘前藩は既成事実を積み重ね、文書類などの証拠を整備して、一件を仲裁する幕府と交渉したのに対し、盛岡藩はこれに上手く対応できなかったため、この地域は幕府により弘前藩の帰属と裁定されたといいます

 しかし、そのような史実は存在しておらず、南部と津軽の確執を強調する後世の創作です。檜山騒動自体は無かったのですが、両藩に確執があったのは事実のようで、事件の前年の1820年(文政3年)には、盛岡藩主・南部利敬(従四位下)が39歳で死去しました。

弘前藩への積年の恨みで悶死したと伝わっています。利敬の養子・南部利用が14歳で藩主となるが、若年のため無位無官でしたが、同じ頃弘前藩主・津軽寧親は、従四位下に叙任され、盛岡藩より家格が上になります。盛岡藩としては、主家の家臣筋・格下だと一方的に思っていた弘前藩が、上の地位となったことに納得できなかったのでした。

そのような背景で相馬大作事件は起こったのです。




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