関良助のこと

下斗米将真と共に処刑されたのは関良助で、本姓を小田島といい、寛政128月鹿角花輪村で生まれた。父は宇平太で母親は福岡の原田氏であった。父の宇平太は浄法寺の関与茂助の弟で佐平といったが、後に宇平太を名乗った。

幼少のころから身体頑健で、容姿も猛々しく義侠心もあり他の子供とは違っていた。宇平太の先祖は和賀氏と伝えられ、代々大和屋と称して花輪で商業を営んでいた。叔父の与茂助は福岡御給人で南部藩士の家格であったが、与茂助は良助の人となりを見て、商人にしておく惜しいと思い、養子に迎えて士分に取り立てたいと弟の宇平太に持ち掛けた。

父の宇平太が承諾したので関家の養子として迎えた。宇平太の姉は福岡の下斗米惣藏に嫁いでいたので、下斗米惣藏の紹介で下斗米将真の門下生となった。文化139月のことで良助が17歳の時であった。

良助は身長六尺の堂々とした体格であり、入門が許されたことを大いに喜び、武を将真に学び、文を田中舘廉政に学んだ。道場でもめきめき頭角を現し、将真の片腕と言われるまでになった。

文政44月将真が津軽候を襲撃する際は、選ばれて参加した。良助は従者の佐々木大吉が異心あるのを察して、彼を処罰してから出発しようと進言した。津軽公襲撃が終わり、将真とともに江戸に上り、剣道指南の代稽古をしていた105日に、室町の商家美濃屋で将真が捕らえられたとの知らせに、将真を捕卒の卒の手に渡すことを阻止しようと美濃屋に向かった。美濃屋に赴く途中、捕卒に会うと落ち着いて捕縛を受けたと伝わっている。

師匠の将真と共に処刑されたが、その時は23歳になったばかりであった。処刑後に関家では、南部藩によって久慈の侍浜に幽閉された。許されて浄法寺に帰ったのは20年後の事であった。




目次に戻る


JA全農いわて あべどり焼き鳥バラエティセット (冷凍) (30本セット)
麸一番 岩手特産 南部ふ【板麸】 5袋 【約20g×5枚入】(手焼板麩)
inserted by FC2 system