下斗米将真 その3

文政4年(1821)、将真は寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を予告しました。これを無視した津軽寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現・秋田県大館市白沢の国道7号線沿い付近で、弟子の関良助、下斗米惣蔵、一条小太郎、徳兵衛、案内人の赤坂市兵衛らと大砲や鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていました。

しかし雇っていた刀鍛冶の密告によって、津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は未遂に終わります。

将真の父、総兵衛は大吉と喜七と徳兵衛の仙台藩出身の刀鍛冶を雇っていました。しかし、彼らは代金が払われないために岩谷堂に帰郷できなかったといいます。津軽公襲撃の計画を知り、さらに身の危険を感じ、事件の計画を津軽藩に密告したのでした。

一説には、将真は襲撃計画が漏れるように刀鍛冶にそれとなく情報を流したともいわれています。あくまでも津軽公の隠居が目的であり、殺害するつもりはなかったと思われます。

大吉と喜七、徳兵衛の3人は、この計画を事前に知らせた功績により、津軽藩に仕官することになります。

暗殺の失敗により、将真は相馬大作と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように、脱藩し江戸に移住し、江戸でも道場を開いていたのでした。道場は入門希望者であふれたともいわれます。

幕府も津軽公襲撃の罪でとらえようと考えたようですが、一人の死者も出ていないことや、江戸市中の相馬大作人気から捕らえることには消極的でした。

しかし、弘前藩用人の笠原八郎兵衛の配下の者が幕吏に手をまわし捕らえられ、文政5年(18228月、千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられたのです。享年34で、門弟の関良助も小塚原の刑場で処刑されています。

一方、津軽寧親は藩に帰還後、体調を崩したといわれます。参勤交代の道筋を、一介の浪人の脅迫で許可もなく変更したことを幕府に咎められたためとも噂されました。寧親は久保田で何日か滞在しており、その間に道筋変更の願いを提出したとする記録があるようです。寧親は数年後、幕府に隠居の届けを出し、その後は俳句などで余生を過ごしました。隠居により、結果的に秀之進の目的は達成されたのです。

また、処刑前の判決文では津軽家が元々は南部家の家臣だったことを認め、その判決を聞いた将真と関良助は涙を流して喜んだともいわれます。

なお、この事件と前後して、盛岡藩内では家督相続したばかりの南部利用が、事故による負傷のため急死してしまった。未だ将軍御目見得前であったため、改易・減封をおそれた家臣団は、年格好が似た従兄の南部善太郎をひそかに「南部利用」として擁立しました。

盛岡藩としては津軽藩の家格云々どころではなかったようです。藩士による他藩藩主襲撃未遂事件がこれ以上広がると、藩の存続自体が危うくなるような状況でした。判決に対しても一切の行動を起こしていません。近年の調査では、相馬大作一味の行為は藩を危機に陥れるだけの迷惑な行動だったとする一方、市中の人に絶大な人気のあった相馬大作を処刑しなければならなかった幕府が、盛岡藩の替え玉工作を知っていながら黙殺したともいわれます。

津軽藩の記録では、これは南部藩家老南部九兵衛の計画によるものであると記録されています。

将真と関良助以外の関係者は、事件後情報が漏れないように牢につながれ、約20年後に釈放されました。関家では当主が九戸郡の侍浜に匿われ、将真の息子と弟は南部藩に保護されたのです。




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