下斗米将真 その2

下斗米将真は夏目長右衛門という旗本に師事して武術を修めたが、1年ほどで夏目が1808年正月に文化露寇への対応で仙台藩兵2千名と共に択捉島に派遣を命じられると、次に夏目の師匠である平山行蔵に入門しました。

平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになったのです。

父が病気と聞いて帰郷し、1818年(文政元年)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣を開設し、姉婿の田中舘栄八や下斗米惣蔵、欠端浅右衛門、田中館連司、一条小太郎などの人々数十人を指導します。兵聖閣は武家や町人の子弟の教育にあたった。同年10月、同塾は近郷の金田一に移転する。

兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、武道場(演武場)、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていました。門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたといわれています。

その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わる(二戸市歴史民俗資料館に遺品の大刀、大砲、直筆の遺墨碑(拓本)が展示されています。

当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていたが、大作も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたといわれます。この思想は、師匠の平山行蔵の思想を受け継いだものでした。

このころ将真にとって不幸な出来事が起こりました。一つは遠州浜松に予定していた東海第二兵聖閣が台風によって海に流されたことです。再起を図ろうと財務担当の細井萱次郎が福岡に向かう途中で「コロリ」に罹りあっけなく死亡したことです。そのため兵聖閣の経営状態は極めて悪化していた[と思われます。

最大の不幸は文政3(1820)年に起こりました。藩主南部利敬の死でした。藩主利敬が39歳の若さで世を去り、遺領を利用が継ぎます。利敬の早すぎる死は、弘前藩に対する積年の鬱憤が原因といわれます。この当時、利用はまだ14歳で無位無官、それに対してもともと家臣筋とみられていた津軽寧親は従四位下(じゅしいのげ)侍従に叙任されています。盛岡藩の家格が、宿敵津軽藩より格下になるというものでした。

このことに不満を抱いた秀之進は、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝えます。




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