下斗米将真 その1

講談などで知られる相馬大作事件。その主人公である相馬大作は、本名は下斗米将真です。「しもとまい・まさざね」と読みます。下斗米氏は本姓は平氏で、平将門の子孫である相馬師胤の末裔と伝わっています。

相馬師胤の8世の子孫である光胤の4男胤茂の子胤成が正平年間、南部氏につかえて南部氏の藩士となり、二戸郡の下斗米に住んだと伝わります。下斗米というのは、今の岩手県二戸市の中心地から数キロ西北にある地域ですが、ここに住みつき郷名を取って下斗米氏を名乗るようになったと思われます。伝説では下斗米を中心として、一日で回れる範囲を南部氏から与えられたと言います。その範囲は二戸市の下斗米から上斗米地域と重なります。

 胤成から数代を経て下斗米常高に至ります。下斗米宗兵衛常高(寛政六年1794年死去)は、蝋漆を扱う平野屋を興し一代で豪商となり、さらに安永年間数度の献金により二百石となります。常高の子が将真の父総兵衛です。

相馬大作こと下斗米将真は、陸奥国二戸郡福岡の盛岡藩士・下斗米総兵衛の二男に生まれました。将真は子供のころから活発な子供であったが、父母は病弱な兄に代わって将真に家督を継がせようとしますが、「家督は兄が継ぐべき」との思いから脱藩して江戸にでます。文化3年(1806年)のことです。に江戸に上った。江戸では実家の商売上のつきあいがあった日本橋室町ノ美濃屋に世話になった後、美濃屋の紹介で御徒士頭の夏目長右エ門に入門することにしました。

一年ほどで夏目が文化露寇への対応で仙台藩兵と共に択捉島に派遣を命じられると、次に平山行蔵に入門します。平山門下で兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり、師範代まで務めるようになったのでした。

 そんな時に父が病気と聞いて帰郷し、文政元年(1818)に郷里福岡の自宅に私塾兵聖閣を開設し近隣の若者を指導しました。実家の道場が狭くなってきたので、十月に近郷の金田一に移転します。兵聖閣は、すべて門弟たちの手によって建設され、講堂、武道場(演武場)、書院、勝手、物置、厩、馬場、水練場などを備えていた。門弟は200人をこえ、数十人が兵聖閣に起居していたといわれています。

 その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝わます。二戸市歴史民俗資料館には、遺品の大刀、大砲、直筆の遺墨碑(拓本)が展示されています。。当時、北方警備の必要が叫ばれ始めていましたが、将真も門弟に「わが国の百年の憂いをなすものは露国(ロシア)なり。有事のときは志願して北海の警備にあたり、身命を国家にささげなければならない」と諭していたといいます。実際に蝦夷地にも足を延ばし、北方警備の重要性を痛感しました。この思想は、師匠の平山行蔵の影響が大きいと思われます。(続く)




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