田中舘愛橘物語  その7

博士のルーツ

 愛橘博士の先祖は浄法寺氏の家臣で現姓は小笠原だったようです。浄法寺氏が没落後は細々と漆芸で生計を立てていたようですが、浄法寺氏の一団が新田開発で功があったので藩士に取り立てられたようです。

 その後が代々南部藩の兵法師範をつとめたといいます。愛橘はつまり「侍の子」だったのです。古くは浄法寺大清水にあって50石、浄法寺氏没落後は鹿角に移り34石、後に新田開発の功績により福岡で兵法指南に取り立てられます。博士が12歳の時明治維新となり「侍の時代」は終わりますが、博士も15歳まではちょんまげを結っていたと伝わっています。

博士はしばしば「家族に恵まれなかった」といわれます。母喜勢を7歳で亡くし、3人の母を持ったことになるそうです。父稲蔵は博士が26歳の時に切腹で命を絶ちます。37歳で本宿キヨと結婚しますが、翌年に娘美稲を産んで亡くなっていなす。

 これらの事実は、そう表されても当然かもしれません。
しかし、博士はこうした身内の悲しみなど殆ど感じさせぬ凄まじい生き方をしています。その原点は武士道にあったろうし、「滅私報国」という思想があったのではないかと思われます。一族の下斗米将真の生き様を彷彿させるものがあります。

 侍は、その存在そのものが「国を護る」ためのものであるというのが博士の考えにありました。「侍」が、その命を懸けるのはただ「お国のため」。愛橘は幼い頃から厳しく武芸を仕込まれたが、それは「国のために命をすてる」事の訓練です。

 長じて、物理学を一生の道と定めるとき、愛橘は大いに迷い父に相談してます。

「これまでは国家を治める道を選ぼうと思っていたが、理科の根本たる物理学を修めて、おおいに我が国の弱い所を補いたいのです。」

 父は「家名の事など気にするな。物理学で世界人間社会の役に立てればそれでよい。」と答え、決心を促したといいます。

博士を考える上で、もう一つ忘れてはいけないのが、相馬大作(下斗米秀之進)の「実用流」の思想と、その延長上にあると言って良い「会補社」です。

 侍の時代があまりに長く続き、もはや実践の役に立たない武士ばかりだ。これではいかん。と、「実用流」を学び、南部福岡で、本当の武士を育てた、相馬大作。彼が津軽候を襲撃し、追われたのち、その道場を継いだのが曾祖父彦右衛門でした。

また、「会補社」は北の松下村塾とも言われ、幕末にあって、尊皇思想も理解する集団でした。各地の志士たちは会輔社を訪れ天下国家を論じたと言います。愛橘の父稲蔵はこの会補社の社長をつとめていました。会補社の中心人物の一人小保内定身は、愛橘のおじ(母の兄)に当たる人物でした

 愛橘博士はまさしく会輔社の麒麟児だったのです。。


いろいろ教えて頂いた中村誠氏のサイトを参考に作っています。

http://www.noii.jp/com/aikitu/



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